「確かに大統領選は一場のサーカスにすぎない。しかし、改革派に勝機が見えている今、みすみす保守派を勝たせてしまえば権力者たちを一層つけ上がらせるだけではないか」

その結果、2回目の投票では1回目よりも投票率が10%近く上がり、ペゼシュキアンが当選することになりました。

私は個人的にこの判断は賢明だったと考えています。

生活者として現実的な選択

イランの大統領選は自民党の総裁選のようなもので、「誰が選ばれても一緒」という面は確かにある。投票行動そのものが、国民に銃口を向ける独裁者の延命に手を貸すことだという論理も分からなくはない。

しかし、実際に選挙をボイコットしたところでイランの体制がダメージを受けると思いますか? 日本の場合もそうですが、むしろ投票率が下がって喜ぶのは固定支持層を持つ既成権力の側です。

私はこうした話を友人たちにもしていますが、現体制に完全に背を向けている彼らにはなかなか理解してもらえません。「結局お前は外国人だから分からないんだ」なんて言われたときは久々にわりと凹みました。

一方、1回目からペゼシュキアンに投票したという、ある友人は私にこう話してくれました。

「『ダメ候補』を落とし、『ややダメ候補』を選ぶのがイランの選挙。抜本的な改革なんか初めから期待してないよ。でも、たとえば後者が前者よりもインフレ率を1%でも低く抑えてくれそうなら、彼に一票を投じる。いくら大統領の立場が弱いとはいえ、それくらいの権限はある」

彼もまたイスラム体制そのものは見限っているわけですが、あくまでも今日明日を暮らす生活者として現実的な選択をしたということでしょう。

イスラム教徒の祈り
写真=iStock.com/Diy13
※写真はイメージです

自分の考えだけが絶対に正しいという思い込み

このように、選挙に参加する人々が必ずしもイデオロギー的に現体制を容認しているわけではなく、様々な考えのもとに一票を投じているにもかかわらず今回、国内外で投票した国民に対して反体制的な人々の一部が「売国奴」「独裁者の手先」などのレッテルを貼り、投票所の前などで激しい妨害活動を行っていたことは評価できません。

思想信条の自由はどんな場合にも保証されるべきです。投票したくないのなら自分が行かなければいいだけの話で、ボイコットを呼びかけるくらいならまだしも、投票した人を侮辱する権利など誰にもない。

残念ながらイラン人には、特に政治のこととなると自分の考えだけが絶対に正しいと思い込み、それを相手にも押しつけようとするところがある。しかし、それでは現在の強権体制とやっていることがまるで同じです。

こういう場面を見るにつけ、私はイランの民主主義の未熟さ、自由に対するイラン人の理解の不十分さを痛感します。

本書でも「政治改革はイラン人一人ひとりの自己点検から」ということを強調しましたが、そのことを改めて感じた大統領選挙でもありました。