伯父の妻である義母に女中のように酷使された少女時代

ノブは晩年になってから、子や孫たちによく自分の昔話をするようになる。そこに義母の話がでてくると必ず「性格のキツイ人」「厳しい人」といった表現が使われる。

母と娘というよりは、嫁としゅうとめのような感じでもあり、長い年月が過ぎていたのだが、わだかまりは残っていたようだ。

それでも女学校には通わせてもらった。女学校卒の経歴は、それなりの階層においては結婚に有利な条件のひとつになる。義父母にはそんな思惑があったのだろう。もっとも、この時代はどこの家でも娘を女学校に通わせる目的はそれだった。

花の女学生、人生でいちばん楽しい時のはずなのだが……、あいかわらず義母は家事をあれこれと言いつけてくる。色々とやることが多過ぎて、友達と遊ぶ暇などはない。サボればまた義母から厳しく叱られる。常にその目を意識して、文句を言われぬよう細心の注意を払う。家の中では常に緊張を強いられてリラックスすることができなかった。

結婚するまで包丁も握ったことがない女性も多い現代とは違う。この時代はどこの家庭でも、母親は娘に家事を手伝わせて家事のスキルを身に付けさせようとする。また、家計を任される妻の責任を自覚させるために、質素倹約の精神を教え込む。

男尊女卑思想のない貞雄と結婚し、人生が変わった

女の幸せは良縁に恵まれること。そして当時の男たちが求める理想の妻は、家事を万事そつなくこなして夫を献身的に支え、子どもの教育もしっかりとできる。いわゆる“良妻賢母”。それが女性のめざすべき姿だと信じられていた。

義母もまた、ノブを良妻賢母に育てることが自分の使命と思っていたのだろう。彼女の場合は少しやり過ぎの感はあるのだが。

女学校を卒業すれば婿を取らせる。それはノブを養女に迎えた時から決めていたことだ。貞雄との結婚も養父母が決めたもので、彼女に拒否権はない。が、結果的にはそれが正解だった。

夫となった貞雄はエリートであることを鼻にかけることがなく、物腰の柔らかい好人物だった。高等学校からずっと東京での都会暮らしをしていたこともあり、服装はもちろん考え方も洗練されている。男尊女卑をあたり前のように考える田舎の男たちとは違う。何をするにもノブとよく話し合い、彼女の意見を無視するようなことはしなかった。

最良の夫と巡りあえたのは運だけではない。幼い頃から女中のようにこき使われ、女学生になってからも友達と遊ぶ暇も与えられず家事をこなしてきた。これも花嫁修業と思えば、他の娘たちに負けない厳しい修業に明け暮れてきたということになる。

それは誰にも負けないという自負があった。