河西昌枝(1964年東京五輪女子バレーボール金メダリスト)

かさい・まさえ(写真左。右は大松博文監督)。1933年、山梨県出身。山梨県立巨摩高校卒業後、日紡に入社。日紡貝塚女子バレーボールチームで大松博文監督のもと国内外175連勝を達成。62年の世界選手権、64年の東京オリンピックで金メダル。2004年アテネオリンピック全日本女子バレーボールチーム団長。08年、世界バレーボール殿堂入り。

あの歓喜の東京五輪から48年余が過ぎた。2012年の年末。女子バレーボールで金メダルを獲得した「東洋の魔女」の全日本の主将、河西(現姓中村)昌枝はしみじみと漏らした。

「日本中の声援が忘れられません。みなさんがほんと、ひとつになって、“がんばれよ”“勝ってほしい”と応援して下さった。プレッシャーでもなんでもなく、こんなに応援してくださっているのだから金メダルをとるしかないと思っていました」

2020年東京五輪・パラリンピック招致を支援する「アスリートフォーラム」でのことだった。79歳の金メダリストは自身の五輪経験を語る。「命がけで世界一を目指したのは、長い人生の中でたった4年間だったような気がします」と続けた。

当時、日紡貝塚で“鬼の大松(博文)”の指導の下、猛練習に励んだ。初めて出場した1960年世界選手権(ブラジル)でソ連(現ロシア)に敗れ、2位となった。が、62年世界選手権(モスクワ)ではソ連を破り、世界一となる。「もう私のバレーボールは終わり。辞めて、結婚でもしようかな」と考えた。当時29歳だった。

「でも、あの時、辞めることはできなかった。家族も、歳をとった両親も、辞めて帰ってきなさいとは言えなかった」。そういうと、涙で言葉を詰まらせた。「両親の気持ちを思うと…。私は“がんばります”と言った時、“やるんだったら、一所懸命にやりなさい”と言って笑顔で送り出してくれました」

その父は東京五輪の直前の8月に他界する。東京五輪は10月10日に開幕し、バレーボールは10月23日にソ連との決勝戦を戦った。全日本が2セットを先行する。だが第3セット、14-6から14-13に追い上げられた。「もうこれ以上やることはない」と思った時にスキが生まれたのかもしれない。「最後に大松先生に言われた言葉。“死ぬまで努力であり、修行であり、その連続である。これでいいといいうことはありえない”と」

結局、全日本がストレート勝ちする。金メダルである。「自分が最高の力を持った時、東京でオリンピックが行われ、優勝ができた。家族と日本中のみなさんへの感謝の気持ちは一生忘れることができません」。歳月は流れ、いま、二度目の東京五輪開催を目指す招致活動を応援する立場となった。

「2020年オリンピック招致を目指して、私は元気でいられたらいいな、と思っております。これからの私の努力は、8年後、元気でいられること。大勢のみなさんと出会いながら、素晴らしい一生でありたいと思っております」

2020年。東洋の魔女のキャプテンは米寿(88歳)を迎えることになる。

(フォート・キシモト=撮影)
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