フラッシュメモリを発明した日本人
一握りの天才たちが半導体産業を作り変えている中で、日本人はどうしていたのでしょうか?
実は日本にも天才は存在しました。インテルの世界最初のプロセッサは日本人の設計によるものでしたが、フラッシュメモリの発明も舛岡富士雄という日本人でした。
舛岡氏は、東芝に入社後、高性能なメモリを開発したものの全く売れなかったため、営業職を志願し、アメリカのコンピューター会社を回りました。結局全然売ることができませんでしたが、この時に何度も営業先に言われた「性能は最低限でいい。もっと安い製品はないのか」という言葉から、性能の向上ばかり考えず、需要に見合った機能を持つ製品を低コストで作るべきだと悟ります。
性能を落としてコストを4分の1以下にする方法を思いつき、フラッシュメモリを発明しました。
その後、東芝は舛岡を地位は高いが研究費も部下も付かない技監に昇進させようとし、研究を続けたかった舛岡は退社しました。直後に舛岡の開発したフラッシュメモリは爆発的に売れ出し、一時は東芝の利益の大部分を稼ぎ出す主力事業となりました。
重要な技術革新の報奨金はわずか数万円
フラッシュメモリは、半導体分野における最も重要な技術革新の一つです。その発明者である舛岡は、巨万の富を得ているはずだと思うかもしれません。しかし、日本ではその常識は通用しません。
世界が大組織の時代から個人の時代へ移行したのに、日本ではまだまだ大組織が主人公で、個人はそこに埋もれる存在でした。フラッシュメモリを発明した舛岡に対して、雇用主である東芝が支払った報奨金はわずか数万円でした。
その後、舛岡は自身が発明したフラッシュメモリの特許で、東芝が得た少なくとも200億円の利益のうち、発明者の貢献度に応じて受け取るべき相当の対価を40億円とし、その一部10億円の支払いを求めて2004年3月2日に東芝を相手取り、東京地裁に訴えを起こします。2006年に東芝との和解が成立、東芝側は舛岡に対し「8700万円」を支払うこととなりました。
1億円近い金額ではありますが、もし彼がシリコンバレーでフラッシュメモリの会社を仲間と設立し、首尾よくインテルに会社を売却していたらどうなっていたでしょうか?
何百倍、何千倍も利益を得られたであろうことは疑う余地がありません。