取材に行かなくて記事が書けてしまう

ライターはすぐに生成AIに仕事を奪われる、そう言われるようになってずいぶん経つのに、僕自身はあまり言われたことがない。むしろ、どれだけ生成AIが発達してもpatoさんは奪われませんね、みたいに言われることがある。それはまあ、浅はかな考えだ。たぶん奪われる。

その考えのもとにあるのは、おそらく強烈な取材を敢行している記事が多いからだろう。

青春18きっぷで日本縦断したり、140円の切符で合法的に1000km以上移動したり、全都道府県のスタバにいったり、海抜0メートルから富士山に登ったり、廃線を100km以上も歩いたり、鹿児島から青森まで高速道路に乗ってすべてのSAでラーメンを食べたり、すべての新幹線駅で下車したり、そういった手足を使うことで成立する記事が多い。さすがにそういう実地の取材は生成AIには難しいという考えだ。

雨の日に京都竹林を通過する列車
写真=iStock.com/ferrantraite
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そんなもの、取材に行かなくても生成AIならビッグデータからさも行ったように記事を書いてくれるよ、となるのだけれども、我々人類はすでにそれを通ってきている。コタツ記事騒動だ。行ってないのに行ったように、経験したいないのにネットの情報だけを組み立てて書くコタツ記事が跋扈し、それはダメだよねとなっている。きちんと取材にはいかねばならないくらいの共通認識はあるはずだ。

ただ、もうすでにその取材に行くことすら人間だけのアドバンテージにはなってはいない。手足というか人間と変わらないボディを搭載し、それらをナチュラルに動かすことができるAIまで開発されているようなので、そのうち生成AIが青春18きっぷで日本縦断して夜の大舘駅に降り立って、真っ暗闇に呆然とする記事を書いてくれるはずだ。そういう意味では、まあ、仕事を奪われるのだと思う。

AIの文章には決定的に足りない要素があるが…

ただ、よく考えてみてほしい。いくら生成AIといえども、手足が搭載され、哀愁を漂わせながら青春18きっぷ握りしめて日本縦断していたらそれはもう人間だ。仕事仲間だ。ライバルでもありライター仲間でもある。なんか仕事の悩みとかないか。原稿料未払いとかされてないか。こんど飲み行くか。

そんな冗談はさておき、生成AIによって書く仕事は奪われるのかと聞かれると、奪われると即答するしかない。ただ、同時に生成AIは人間が書く文章に到達できないと思っている。それには彼らの文章にはある要素が足りないからだ。ただ、その要素を必要としない世間の潮流があるので、おそらく書く仕事は奪われていくのだろう。

生成AIが出力する文章に決定的に足りないもの、それは「苦悩」と「葛藤」そして「自問自答」だ。

これは先日出版した『文章を書くときいちばん大切なものは、感情である。』(アスコム)を執筆中に気が付いたのだけど、僕は自分自身をまったく信じていない人間なのだ。おそらく世界の中でもかなり上位に入るくらい僕は僕という人間を疑っている。こんなやつは信頼に値しない。