老婆が渡した金比羅の護符には笠置の生まれ故郷の名が

両親や親戚縁者も護符の奇跡に唖然とするばかりであった。親戚などが寄ってたかって霊験あらたかな護符をいじっているうちに、護符の裏側に文字が書かれていることに気づいた。

相生村あいおいむら しづ子」とあった。

これには一同さらにギョッとさせられたのである。しづ子なる人物には心当たりはないが、相生村とは笠置の生まれた村である。どんないわくがあって相生村の名前が書かれていたのだろう。

誰も知るすべもなかったが、この護符に命を救われたと信じた両親によって、笠置は戸籍もミツエから志津子となり、後年静子と改名したのである。

この護符は笠置によって大事にされていたが、戦災によって失われたとのことである。

若かりし頃、北海道巡業での不思議な出来事とは…

ついでにもう一つ笠置の運命を分けた話をご紹介してみたい。ノンフィクション作家の砂古口早苗が調べ『ブギの女王 笠置シヅ子』(現代書館、潮文庫)で書いている。

昭和29年8月から9月にかけて笠置は北海道にいた。俳優の長谷川一夫一座と笠置の座組一行は合同で北海道巡業をしていた。とはいえ劇場によっては別興行を打つこともある。

1929年公演「第4回春のおどり開国文化」で踊る笠置シズ子(中央)
1929年公演「第4回春のおどり開国文化」で踊る笠置シズ子(中央)(写真=OSK日本歌劇団/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons
笠置シヅ子と親交があった長谷川一夫『アサヒグラフ』1953年4月29日号
笠置シヅ子と親交があった長谷川一夫『アサヒグラフ』1953年4月29日号(写真=朝日新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

最終的には両者一行は9月26日に函館で合流し、函館発の青函連絡船に乗船して青森から帰京する手はずだった。長谷川一夫一座は予定通り函館に着いたが笠置の一行が遅れていた。

帰京後の予定も詰まっていた長谷川は先に帰ることもできたが、笠置の到着を待つことにした。結局、間に合わず長谷川一座は当日の青函連絡船には乗らなかった。これが長谷川一座の生死を分ける判断となった。

この日の夕方から台風15号通過の予報にもかかわらず、台風の影響が遠のいたという船長の判断で出港した連絡船洞爺丸とうやまるは、予想に反し波浪高い函館湾内であっけなく転覆してしまった。死者・行方不明者1155人を数える日本海難史上最悪の事故となった。生存者は159人を数えるのみであった。