テレビ中継となった第4回では「東京ブギウギ」で沸かせた

笠置シヅ子は翌年、1953年(昭和28)1月2日、「第3回」に2回目の出場を果たした。ここで歌ったのが、1949年(昭和24)7月、空前の野球ブームのなかリリースした「ホームラン・ブギ」(作詞・サトウハチロー)だった。この曲をステージで歌うとき、笠置は応援団長のポーズでパワフルなパフォーマンスを披露。ある時、勢い余ってオーケストラボックスに落ちてしまったとか。

この時はまだラジオ中継なので紅白でのパフォーマンスはラジオのみだった。しかしこの年の2月1日、NHKがテレビジョンの放送を開始。テレビ時代が幕開けする。初放送のゴールデンタイムには、日比谷公会堂から人気歌番組「今週の明星」がラジオとテレビで生中継された。記念すべき最初のテレビの歌番組に笠置シヅ子が、買物カゴにかっぽうぎ姿で登場、「買物ブギー」をコミカルに歌い踊った。こうしてテレビ時代が幕開けした。

この年、1953年の大晦日、「第4回NHK紅白歌合戦」が開催された。紅白としては初のテレビ放送ということもあり、有楽町の日本劇場に観客を入れてのスタイルとなる。笠置シヅ子にとっては、敗戦の年、戦争で閉鎖されていた日劇が再開を果たした1945年(昭和20)11月「ハイライト」公演に出演。1947年(昭和22)10月にはレコード発売前の新曲「東京ブギウギ」を東京で初めて歌った劇場でもある。いわばホームグラウンド。朝ドラ「ブギウギ」の「日帝劇場」は、この「日劇」とお堀端の「帝劇」をモデルにしている。

「東京ブギウギ」(笠置シヅ子)オフィシャルオーディオ Nippon Columbia Co., Ltd.

毎月新作ミュージカルを発表していた2年間は紅白に出場せず

この「第4回」で笠置シヅ子が歌ったのは「東京ブギウギ」。1947年、最愛の人・吉本頴右に先立たれて、失意のなか愛娘を出産。シングルマザーとして生きていく決意をした時に「先生たのんまっせ」と服部良一に依頼して誕生したのが「東京ブギウギ」だった。敗戦後の人々の復興ソングであり、笠置シヅ子の復活ソングでもあったのだ。

この後、2年間、笠置シヅ子は紅白に出場していないが、実は多忙を極めていた。舞台公演に加えて、新しいメディアであるテレビジョンで服部良一と共に、毎月新作のミュージカルを披露する番組「ミュージカル・ショウ」に挑戦していたのだ。月1回のペースで1953年から1955(昭和30)年末まで、24本もの新作ミュージカルが生放送されている。