土砂崩れが引き起こした段波は、市原さんが避難していた長殿地区でも発生していた。同地区では彼の自宅を含む18棟の建物が全壊したが、特に多くの関係者の目を引いたのが水力発電施設の被災だった。コンクリート製の建屋は粉々に砕け、鉄塔が折れ曲がり、鉄筋が団子状にねじ曲がっていた。奇妙なのは、周囲の杉や檜が川の上流に向かって一斉になぎ倒されていることだった。これは熊野川本流を第1の土砂崩れが塞き止め、その土砂ダムの中に第2の土石流が流れ込んだことが原因だった。野尻地区とは異なり、長殿地区では土石流の引き起こした波が川を逆流した。発電所や長殿地区の家屋は、津波のような激流によって上流へ押し流されたのである。

4日の朝、停電の続く村では多くの集落が孤立していた。村外からの支援の手が届いたのは、翌日の5日の早朝のことだった。五條市と新宮市を結ぶ国道168号線は至る所で寸断されていたため、自衛隊は紀伊山地を通る細い山道をかき分けるように走って役場に到達した。時を同じくして国交省の災害対策チームがヘリで到着、上空からの調査で村内に大規模な土砂ダムが複数形成されていることが確認され、その崩壊に備えて谷間の集落が避難指示地区に指定された。冒頭の「赤谷」もその中の1つだ。

被災直後から村役場の各所に貼られている更谷慈禧村長の書。

それでも村が村としての機能をどうにか保てたのは、各集落の自治意識の高さがあったからだ、と更谷村長は言う。

「我々が被害の状況を把握することさえできずにいたとき、村民が自ら行動を起こしてくれたことに、どれだけ助けられたか分かりません。孤立した集落で村民は食料を分かち合い、水も融通し合って生き抜いてくれた。クエた道路や橋もぜんぶ自分たちで応急処置をしてくれたんです。土建業者の人たちも重機の鍵を点けっぱなしにして、国道までの道路啓開をどんどんやってくれた――」

台風12号による被災は、冒頭の赤谷のように現在も現在進行形の出来事として続いている。土砂ダムにおける応急復旧工事がひとまず完了し、最後の避難指示地区の指定が解かれたのは、被災から約5カ月が経過した12年2月7日のことなのである。その過程の中で自治体の長として更谷村長の胸にあり続けてきたのは、同村の歴史に刻まれた明治22年の「十津川大水害」の記憶だった。

明治22年にできた塞き止め湖のうち唯一現存する「大畑瀞(おおばたけどろ)」。

今回と同じように山崩れや土砂ダムの崩壊が発生した明治の水害では、168人の犠牲者が出た。その後、十津川村では2600人の村民が被災からわずか2カ月後に北海道へ移住し、現在「米どころ」として知られる新十津川町の礎を築いた。更谷村長は2011年の台風災害以来、そうした歴史を省みることから、過疎化に苦しむ村の復興もまた考えていかなければならないと考えている。

「壊滅的な災害から123年が経ち、当時と同じ水害がわが村を襲ったわけです。ただ、この村には十津川人魂、十津川精神といった言葉があるのですが、もうとっくに薄らいでいたと思っていたその自治の意識が、今も集落の中で生き続けていたことをこの水害は我々に教えてくれもした。そうした心を守り続けることの意味を、今後の村の復興に活かしていきたい。そんな思いの中で災害対応に当たってきた1年でした」

※すべて雑誌掲載当時

(プレジデント編集部=撮影 国土交通省=写真)
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