雷が落ちたような「山のクエた音」が響く

村には消防団の分団が7つあり、役場には村職員約30名で構成される本部分団が設置されている。彼らは台風接近時から土嚢の準備や搬送を続けていた。本部分団の副部長(当時)である建設課の乾耕輔さんは、農林課の若手職員・千葉陽一さんとともに車で現場へと向かった。辺りは薄暗く、濁流と化した川は闇に包まれつつあった。激しい雨のなか国道を走った2人は、川沿いに建つ2戸の村営住宅の手前に差し掛かったとき、理解し難い光景を見ることになった。

「道の至る所に石や雑木、土嚢が転がっているのに、そこには水が流れた跡だけがあって、どれだけの水が道路に上がったのか、なぜ水が来たのかが分からないんです」と乾さんは振り返る。

野尻地区に到着すると、川を渡る導水路の太い管の近くに住宅の残骸があった。1戸は2階部分が引きちぎられ、川沿いの土地に横たわっていた。何か大きな力によって家が吹き飛ばされたようだった。

周囲は一段と暗くなり、霧が立ち込めていた。地元住民による救出活動によって、すでに助け出された2名の生存者は診療所に搬送されていた。2人が到着したとき、住宅から外に放り出されたのだろう、子供の生存者が1人、導水路近くから泥まみれで発見されたところだった。

「役場の公用車に乗せて診療所に運びましたが、とにかく分からないのは、上流も下流も他に被害はなく、2戸の村営住宅だけが流されていることです。原因が不明のため、この日の捜索は10時前に警察によって打ち切られました。当時は人命第一でみな必死でしたが、川の様子も暗くて見えない中での作業でしたから、後から考えるとぞっとする状況でした」

十津川村の更谷慈禧村長。被災から約1カ月は庁舎に泊まり込んだ。

結局、死者2人・行方不明者6人を出した被災原因は判明しないまま、その夜も雨は降り続いた。更谷慈禧村長が奈良県の荒井正吾知事に被害状況を報告した後の4日未明、今度は役場内の電話が不通となった。さらにほぼ同じ時間帯の午前1時42分、村内唯一の基幹道路である国道168号線で、増水した川の上で揺らいでいた折立橋が落橋。村は2重3重に孤立状態に陥ることになる。これを機に、更谷村長は奈良県を通じて自衛隊の災害派遣要請を行っている。

十津川村の全域で発生した深層崩壊は、この時間帯になって「山が耐えきれなくなったように」群発的に発生したと思われる。連絡手段のない各集落には防災無線が流れるばかりだったが、停電によっていずれその放送も聞こえなくなった。

例えば上流の長殿地区の消防団長で、隣接する五條市宇井の土砂崩れにより母親を亡くした市原光留さんは、避難した地区の公会堂で「雷が落ちるような『どかーん』という音」を聞いたと話す。

「それが山のクエた音か、ほんまの雷の音なのかは分からんのやけど、とにかく大きな音やった。外では山の上の方から水が落ちてくる音がずっと聞こえとりました。どこかで土砂崩れが止まるんやろな。一度どーんと水と砂利がいっぺんに流れてくると、5分か10分くらい止まる。すると、またいっぺんにどーんと出てくる。3日の深夜はずっとその音が外でなっているから、自分らも公会堂まで砂利が入ってきたら、どこへ逃げたらいいんやろか、という話をしていました」

長殿地区の消防団長を務める市原光留さん。この水害で母親を亡くした。

翌朝、村の全域には腐葉土のような泥臭い匂いがたちこめていた。それは山が奥深くから崩れた匂いだと思われた。中国地方を縦断した台風は日本海に抜けつつあり、止むことがないように感じられた雨も次第に弱まっていった。

早朝から野尻地区の被災現場での捜索活動を再開した人々は、そのとき初めて村営住宅の対岸を見て言葉を失った。朝靄の向こうで対岸の山が見上げるように高く、深く崩壊していたからである。その様子を見て、彼らは前日の夕方に野尻地区で何が起こったかについて、ようやくいくつかの想像を働かせることができるようになった。前日、熊野川の水位は岸まで約1メートルまで増水していた。崩壊した土砂は一気に川に入り込み、凄まじいエネルギーで川の流れを変え、発生した段波が対岸に押し寄せたのだろう――と。

国道沿いの山側に暮らす住民から、乾さんは次のように話を聞いたと振り返る。

「住民の方によると『ばんと音がしたから、何があったかと見にいったら、いつも見える村営住宅がなくなっていた。慌てて外に出たら、そこにはもう水はなかった』と言う。道路の欄干が軒並み同じ方向に倒されていて、水の高さは国道から30センチくらいまで上がったようです。それで川が氾濫したわけではないのに、道路に木や石が転がっていた理由がようやく分かりました」