「下半身の問題」が公共性を帯びた報道になっていった

直近で言えば、自民党裏金問題にしても競争の中で全国紙が特ダネ合戦となった。ところがSNSで話題になっていたのは特ダネよりもロクな取材もしていないまま書かれていた自民党という「巨悪」を断罪するオピニオン記事だった。

取材先に食い込み、捜査の筋を読み、どこまで立件されるかを先読みして、政治家の責任を追及する――。こうした新聞記者の本分は今でも十分に発揮されているし、これで仕事をしていないとばかりに論じられるのはさすがにアンフェアだろう。

その上で、半分は同意できるのは社会が何をもって「仕事」をしているか、つまり重要なニュースを報じていると判断するか。社会のニーズを週刊誌のほうが捉えているという点においては、反論しようがないからだ。『週刊文春』2月29日号でもはっきりと書かれていたが――そして拙稿でも指摘していたが――ハリウッド発の「#MeToo」運動はやはりメディア史に残るエポックメイキングな出来事だ。文春側も松本問題を「#MeToo」以降の流れのなかに位置付けている。

以降、密室の権力関係の中で強要される「性加害」は単なるスキャンダルで終わらせず、ニュースとして報じるべきものになった。週刊誌の俗物主義は創刊以来変わらないが、覗き見趣味と同じ扱いを受けていた下半身の問題は、社会の変化のなかでより高い社会性、公共性を帯びた報道へと変わった。単純に下半身の問題を扱うノウハウを持たない新聞社は後塵を拝することになった。

「良いニュース」には5つの条件がある

取材の端緒になるタレコミが集まってくるのも当然ながら週刊誌というなかで、ノウハウは一朝一夕では積み上がらない。「取材の現場知」は当然ながら経験によってしか蓄積されない。とはいえ、絶望に絶望している時間は残されていない。時代の変化を積極的に捕まえていくという選択肢しか残されていない。学ぶべき先例はまさに「#MeToo」報道の中にある。

MeTooの見出しが見えるウェブ記事
写真=iStock.com/tzahiV
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私は『ニュースの未来』(光文社新書)という本の中で、時代を動かす「良いニュース」を「謎」「驚き」「批評」「個性」「思考」という5つの条件で整理した。その具体例として取り上げたのが、ピュリッツァー賞を受賞し、映画化もした『その名を暴け #MeTooに火をつけたジャーナリストたちの闘い』(新潮社、2020年)もだった。

余談だが、ハリウッドの映画化はノンフィクションの原作付きであっても、かなり大胆な脚色をする。無かったシーンを作ったり、不要と看做した(しかし、重要な)シーンを無かったことにしたり、主要な人物も外見描写が全く異なったりする。本作もまずは書籍をあたってほしい。