「歌舞伎」と縁がありそうでない歌舞伎町

新宿・歌舞伎町といえば、一大歓楽街として全国にその名を知られている。派手な色彩に輝くネオンが一帯を照らす不夜城であり、路地に回れば、なにやらあやしげな店が人々を誘惑している。ほかでは見かけることがない光景に出合う街、それが歌舞伎町である。

歌舞伎町のイメージ
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歌舞伎町を象徴するランドマークであり、待ち合わせの場所でもあったコマ劇場は、演歌の殿堂として中高年の男女が昼夜詰めかける劇場だった。2008(平成20)年で51年間に及ぶ歴史に幕を閉じ、隣接する映画館を含めて周辺の再開発が進められ2015年オープンの、シネコンやホテルが併設された新宿東宝ビルの8階屋外テラスには、大きさ12メートルの巨大なゴジラヘッドが設置され、新たなランドマークとなった。

コマ劇場の存在や歌舞伎町という町名から、この地は歌舞伎一座の本拠地だったとか、歌舞伎を催す劇場があったなどと想像する人が多いだろう。

だが、実際には歌舞伎町で歌舞伎一座がのぼりをたなびかせたことも、興行が行なわれたこともない。歌舞伎町は歌舞伎と縁がありそうで、ないのである。

終戦直後に計画された「一大文化施設ゾーン」

歌舞伎町という名称が生まれた経緯は、太平洋戦争敗戦直後の1945(昭和20)年からはじまる。もともとこの一帯は、肥前(現在の佐賀県と対馬・壱岐を除く長崎県)大村藩主の大村家の屋敷があった場所。大正時代に入って女子校が建設された頃の住居表示は、角筈一丁目だった。女子校は空襲により移転していき、あとには焼け野原が残るばかりとなった。

そのとき、角筈一丁目北町会の町会長だった鈴木喜兵衛は、地域の復興を象徴する娯楽場所をこの地に建設しようと思いつく。終戦からわずか4日目から復興計画に着手したというから目を見張る行動力である。

2カ月後には、地主やかつての住民たちを集めて復興協力会を組織。区画を整理して焼け野原に一大文化施設ゾーンを建設しようと決定した。都の了承も得た構想には、芸能広場を中心として劇場や映画館、ホテルを建設することが盛り込まれていた。そして、劇場には歌舞伎用の劇場も含まれていたのである。