なぜ品川駅は「品川区」ではなく「港区」にあるのか。なぜ歌舞伎の興行もないのに新宿に「歌舞伎町」があるのか。筑波大学名誉教授の谷川彰英さんの新刊『増補改訂版 東京「地理・地名・地図」の謎』(じっぴコンパクト新書)より、一部を紹介する――。(第1回/全2回)
品川駅構内のイメージ
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明治はじめに起きた「鉄道反対運動」

明治のはじめ、文明開化とともに東京にお目見えしたもののひとつに鉄道があった。日本初の路線は東京と横浜を結ぶことが決定し、イギリスから技術者たちを招いて計画が進められた。そして、1872(明治5)年5月7日、まずは品川~横浜駅が仮開業し、9月12日には新橋~横浜駅が本開業となった。

このように品川駅は最古の駅のひとつだが、じつは品川区ではなく港区にあることをご存じだろうか。不思議なことに駅名と所在地の区が合致していない。

鉄道がどんなものなのかわからない時代ゆえに激しい反対運動が起き、結果的に駅の場所がずれてしまったのである。

品川といえば、江戸時代には東海道五十三次の第一の宿場として栄えた町。鉄道の計画を聞いて、住民たちは宿場がすたれ、失業者が続出するといった恐怖を抱いた。今なら鉄道が走って駅ができれば町の活性化につながると歓迎されるところだが、当時は未知の交通手段であり、どんなことになるのか想像もつかなかったらしい。

大隈重信が出した「奇抜なアイデア」

強硬な反発により用地が確保できない状況に陥ったとき、奇抜なアイデアを出したのが、計画を推進していた大隈重信だった。海に目を向け、埋め立て地に線路を通せばよいと考えた。こうして昼夜を問わず干潮時をみはからって埋め立て工事が行なわれ、品川宿からは離れた埋め立て地に駅が誕生したのである。すぐ南は波打ち際だったという。

その後、1902(明治35)年になって最初の駅から300メートルほど北に移動し、品川駅はさらに品川区との境から離れていったのである。

また、1904(明治37)年には京浜急行の前身である京浜電気鉄道が、別の品川駅をつくった。これは品川区内にあり、品川の北に位置しているという意味から1925(大正14)年には「北品川駅」に改称された。このため、品川駅で京浜急行の普通電車に乗って南下すると、次が北品川駅という不思議な状態になっている。

さらに、駅名と区の不一致は、目黒駅でも起きている。1885(明治18)年に誕生したときには品川駅の隣だった古い駅だが、やはり住民の反対運動で位置がずれている。もともとは目黒川沿いの低地に線路を敷く計画で、そのとおりに進んでいれば目黒区内に駅ができるはずだった。ところが、目黒の住民たちは、ばい煙や振動などで一帯の田畑が大きなダメージを受けると猛反発、計画変更を余儀なくされた。線路は何もない坂の上へと追いやられ、目黒駅は品川区上大崎につくられたのである。