現在の皇居の4倍の広さ

そもそも江戸城の広さを知れば、それを抜けるのが簡単でないと実感できるだろう。江戸城イコール皇居だと思っている人は多い。そして、皇居だけでも十分に広いが、宮内庁が管理する皇居の敷地面積は約115万平方メートルなのに対し、江戸城内郭全体は424万平方メートルにおよぶ。皇居の4倍近い広さだったのである。

ちなみに、『暴れん坊将軍』には姫路城の映像が江戸城として使われていた。姫路城もかなり規模が大きな城で、門もたくさんあるため、仮にそこを抜け出すとしてもかなりの困難がともなったはずだが、それでも内郭は23ヘクタールと、江戸城の十数分の1にすぎなかった。

このように江戸城は桁外れの規模だったので、門がなく警備が手薄だったとしても、広大な内郭を抜け出すのは容易ではなかった。しかも、その周囲には外堀で囲まれた外郭があり、外郭をふくめた江戸城の面積は、なんと2000ヘクタールを超えた。そして、外郭の外堀には少なくとも26の門が設けられ、それぞれが一の門と二の門からなる枡形門で、厳重に警備されていた。

江戸城の門と櫓の配置(外郭)
江戸城の門と櫓の配置(外郭)(写真=Tateita/GFDL/Wikimedia Commons

自由がない縛られた生活

『暴れん坊将軍』で徳田新之助が居候していた町火消し「め組」の在所は日本橋界隈と思われる。「新さん」こと吉宗は、そこを拠点にして江戸の町民と交流するが、江戸城本丸御殿から町人の居住区までは、絶対的な距離も離れているうえに、ここまで述べてきたように無数の関門がある。

本丸から外に出る道は、いま述べた以外にもあるが、数々の関門を超えなければ城外に出られない点では同じである。将軍が忍びの姿でそれらを突破できるようであれば、江戸城の安全性が保たれず、ひいては幕府の警護体制に不備があることになってしまう。

徳川光圀も諸国を漫遊したどころか、遠距離を移動した経験がほとんどなかった。水戸徳川家の当主は江戸に在留するのが基本で、光圀の場合、水戸のほかには日光、房総、金沢八景、鎌倉を除くと、若いころに熱海に行ったことがあるくらいだった。

江戸幕府の将軍は、あまり自由がない縛られた生活をしており、そこから逃れる余地もなかったのである。

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