毒親がつくり上げた我慢体質

当時61歳の母親は、山口さんの離婚後、実家に身を寄せない山口さんに憤り、さらに強く当たるようになっていった。母親の会社を手伝っている手前、母親とは毎日顔を合わせる。

「あんたに実家は要らないんだね。私のことが必要ないなら親子の縁を切ろうか」

と口癖のように縁切り宣言をしてくる。

その度に山口さんは、「また始まった。本当にめんどくさい。縁を切りたいのはこっち方だし!」と思いながらも耐えた。

一方、元夫は離婚後、会社を辞め、行方をくらました。夫婦関係を破綻させた原因をつくった慰謝料はおろか、養育費さえも一度も払うことなく、子どもたちに会いに来ようともしなかった。

「元夫は、浮気をしたことも、仕事で集金したお金をギャンブルに使ってしまったこともありました。ボーナスは全てギャンブルに注ぎ込み、決して裕福ではないのに、車検が来る度に車を買い替えていました。私は付き合い始めた高校2年から、ただひたすら我慢していました。毒親育ちの特徴の一つである異常なまでの我慢強さが、全て悪い方へ働いたと思っています。『私が我慢すれば誰も悲しまず、平穏無事に終わる』と思っていましたが、我慢は結局、問題から逃げているだけでした。私は元夫や母親の言葉にこれ以上傷つきたくないから、反論せずに石のようになっていたのです」

競馬新聞と赤鉛筆
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人生を狂わせる連帯保証人

山口さんが結婚して母親の会社で働くようになる年の6年前。兄は20代後半で結婚し、夫婦で母親の会社を手伝っていたところ、兄嫁が里帰り出産をすることに。ひとり残った兄が母親に兄嫁いびりについて抗議すると、たちまち激しい口論に発展。そのまま兄は実家を出て、帰らなくなってしまった。

山口さんは離婚の翌年の仕事中、社長である母親から相談があると呼び出された。社長室に行くと、銀行の営業マンが来ている。母親は言った。

「兄ちゃんが帰ってこないからあんたが後継ぎになる。会社の運転資金を借りるから、連帯保証人のところに名前を書いて」

山口さんは言われるままに名前を書いた。

「毒親社長に育てられた私には、社長の言い付けにNOと言う選択肢は教えられていません。一体いくら借りるのか、毎月いくら返済するのか、何年で返していくのかなどという詳しい説明を求める勇気はすでにもぎ取られているため、躊躇しながらも名前を書きました」

この行動が自身を追い詰めることになるとは想像もしていなかった。