とっくに政治に巻き込まれていた

政治学のよいところは、この「政治とは、権力を通じて、誰かの利益となるように他者の行動をコントロールすること」という、いささかキナ臭い話をも対象にしていることだ。

モヤモヤするなら確かめればいいじゃないかと、附属校の生徒たちに言った。

君たちは、自分には政治なんて関係ないと思っていたかもしれないけど(もちろん、あの官僚の作文を棒読みする大臣の顔が浮かぶのは無理もないけど)、教室で起こっていること、あるいは教室には知らされていないけれど、校長室で決まっていること、関係あるのに「決まっていることだから」とされていることなんかを考えれば、もうとっくに政治に巻き込まれているし、その意味で政治は国会だけじゃなくて、君の学校でも教室でも起こっていることでしょ、と。

校則の中身よりも大事なこと

校則をめぐる話で大事なのは「どういう校則がいいか?」という問題だけじゃなくて、「そもそも、そんな校則を、どんな価値観で選んで、誰がどういう話し合いと理由づけをして決めたのか、そして、どうやってそれを受け入れさせたのか」という、校則が存在する「前」と、存在「し続けている」部分なのだ。

校則の中身については、政治学者が決めることじゃない。それは「それに影響を受ける、今を生きる者(君たち)が」決めることだからだ。「校則をめぐる政治」という言い方がこうして浮上してくるし、意味もじわりじわりと出てくる。

ただ、ここでいう政治の話に当てはまらないことも起こる(めったにないけど)。それは、「どうして女子だけダサい黒靴下?」と問うと、「明け方に、突然お告げがあって、それを讃える儀式をしたら東の空に巫女が降りてきて、その背中に『黒』という文字が見えたんです!」と返されて、一同「ははぁー!」と平伏した、みたいな話だ。

これでは選択肢が他にあるのかないのかも、誰が決めたのかも(巫女だから、結局人間を超えた者で、要は誰かよくわからない)不明だ。これは「人間のやった」政治ではなく、「神とか自然がもたらす」呪術(オマジナイ)の話だ。政治学風に言えば、これは近代以前の「絶対神摂理による秩序付与」なんて呼べるかもしれない。つまり、世界の秩序は人間ではなくて人間を超える存在によって創られるという枠組の政治「神」学だ。

それにしてもダサい黒靴下の問題は切実だ。ティーンエイジャーにとって、着ているものや髪型や持ち物がダサいということは致命的なことだろう。だから、この決め事は、「上が(校長が)言っているから」では済まされない、もしかしたら日本の消費税率をどうするのかという問題よりも深刻になりうる。中高生にとっては。