オバマ当選の夜、アメリカ国民達による“Yes,we can!”を合言葉にした大騒ぎは凄まじいものだった。そして元旦、渋谷の酔客達による“Yes,we can!”を唱えながらの大騒ぎも、凄まじいものだった。両映像をテレビで見つつ私が抱く、前者のわかりやすい物語に感動する気持ちと、後者の最低レベルのギャグに失笑する気持ちとの半ば、というか、それらを超越して、どっちもどっちに見えてくるメタな気持ちをどうしたものだろう。

今期大統領選の投票率は61.6%という推計が出ている。因みに日本の05年衆議院選の投票率は67.5%。07年参議院選の投票率は58.6%。ざっくり言えば各選挙で有権者の3割強が棄権していることになる。で、この3割を擁護したくなる程には、たまにしか投票に行かぬ私も、選挙が苦手だ。多様な民意が即一つにまとまる訳がないと承知はしているが、その時のブームを反映した選挙結果をとりあえず「民意」であるかのように信じるフリをしたくない。さりとて前述のメタな気分にも繋がるこの拒否反応をこじらせてニヒリズムに陥り、せっかくの民意を捨てるのも勿体無い。そんな煮え切らない私が、選挙、ひいては民主主義についてたえず再考すべく、このたび再読した3作がこちら。

まずは『花のズッコケ児童会長』。幼い私にうさんくさい選挙観を植え付けたのは本書だと思う。たかが小学校の児童会長選挙にもかかわらず、買収や醜聞を駆使して激突する候補者達(因みに主人公ハチベエの公約は宿題をなくすこと)。ドブ板選挙特有の汚い後援活動を盛り込みつつ、これといった必罰もなしに進行する話の迫真性は、ズッコケシリーズの真骨頂である。

次に「入れ札」は、菊池寛お得意の小市民的心理小説。国定忠次の乾児(こぶん)達が、親分の御付きを入れ札で3人選ぶのだが、面子を潰したくなかった古参の九郎助は咄嗟にズルをしてしまい、その浅ましさに苛まれることに。人を選ぶ、或いは人に選ばれる際の、いいがたい厭な感じが伝わってくる。本作を収録した柄谷行人の『日本精神分析』所収「入れ札と籤引き」も併読したい。九郎助の感じる浅ましさの原因を選挙自体に求める柄谷は、そのシステムにまつわる不透明感を無くし、また権力が固定しない選び方として、投票+籤引きを提唱する。選挙で籤引き? 面白そうではないか。

最後は「ユキチ・コード」。福沢諭吉の1万円札に隠された驚愕の都市伝説を下敷きに、あるフリーマーケット会場での出来事が、日本近現代史の縮図の如く描かれる。作中挿まれるのが、新しい国「プレコッカ」を舞台にした国王選挙の寓話。国民総立候補により選挙が無意味化する顛末は、民主主義のもう1つの可能性を示唆していると言えるかも知れない。思えば福沢諭吉は渡米中、国民がワシントンの子孫の現状を知らない事態に驚いたという。現在の私はそのナイーブさについてゆけぬが、現行選挙の面妖をふまえつつ、選挙や民主主義のポジティブな可変性(Change?)を模索するこれらの作品を読むにつけ、テレビ見てツッコんでる場合じゃないと感じるのだった。

『花のズッコケ児童会長』 那須正幹著 前川かずお絵 ポプラ社文庫 本体価格600円+税<br>
『日本精神分析』 柄谷行人著 ※菊池寛著「入れ札」を収録 講談社学術文庫 本体価格1050円+税<br>
『早稲田文学0』 ※萩田洋文著 「ユキチ・コード」を収録 早稲田文学会 本体価格934円+税