戦後すぐ、笠置はエノケン一座の公演に特別出演した
そんなエノケンと笠置が初共演を果たしたのは、昭和21年(1946)。エノケン一座に笠置が特別出演した菊田一夫作『舞台は廻る』で、音楽を提供しているのが服部だった。『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(輪島裕介、NHK出版新書)によると、これはフリッツ・ラング監督の映画で知られる戯曲を翻訳した『エノケンのリリオム』との2部構成で、そこで笠置が歌うために服部が作詞作曲したのが「コペカチータ」で、レコード発売された際のB面が「セコハン娘」だったとある。
この舞台をはじめ、2人の共演については、実は笠置の自伝にもエノケンの自伝にも記述がない。しかし、2人のニアミスにも近い接点は、共演を果たす前にもあったようだ。
笠置の自伝によると、前年の東京大空襲で家が戦災したとき、笠置の父親が郷里の四国に帰るまで、焼け残った新東宝プロデューサーの自宅に身を寄せた際、一緒にいた仲間にエノケン劇団文芸部の藤田潤一などの家族がいたという記述があるのだ。
笠置とエノケンは名コンビとなり激動の時代を共に
その翌年に初共演した後は、映画『歌うエノケン捕物帳』(1948年)や『エノケン・笠置のお染久松』『エノケン・笠置の極楽夫婦』(1949年)で次々に共演、デュエット曲『ハリウッドブギ』(1949年)を歌ったり、エノケンが設立した日本喜劇人協会(1955年)に参加したりもした。
女優・笠置シヅ子と喜劇王・エノケンの共演は一見華やかだが、実は2人の人生においては激動の時期でもあった。
笠置とエノケンが初共演した1946年、愛助のモデル・吉本エイスケが帰阪し、笠置の妊娠が発覚。その後、エイスケの死、出産という「人生哀歓の極致」(笠置の自伝より)をわずか10日で体験することとなる。
一方、エノケン劇団はインフレのあおりを受け、1952年に解散。劇団員たちの退職金を捻出するため、地方巡業を始めるが、エノケンの足の病気がその頃から発症。自伝にはこんな痛々しくも責任感の強さを感じさせる記述が見られる。
「この時の興行は、劇場ではなく、広島、山口方面の大きな製鉄会社の、工場の従業員とその家族に観せるものだった。これで座員一同の退職金手当を出すことができるので、多少体の具合が悪くても、どうしても出かけなければならない」
「ところが、直った(本文ママ)と思っていた右足が、汽車の中で猛烈に痛み出した。油汗(本文ママ)を流しながら我慢して、やっと最初の目的地広島に着いたが、もうどうにも歩くことができない。だが、今回の巡業は、普通の興行ではない。座員の退職金を捻出しなければならないのと、すでに工場では、従業員とその家族が朝から詰めかけていて、僕のことを待っていてくれる。動けない、などとはいっていられない」
(榎本健一『喜劇こそわが命』日本図書センター)