名曲「東京ブギウギ」はどのようにして生まれたのか。ポピュラー音楽の研究者である輪島裕介さんは「笠置シヅ子は、戦前は『スウィングの女王』と呼ばれたが、戦後は『ブギの女王』となった。戦前から組んでいた作曲家の服部良一は、終戦時、恋人に死なれてシングルマザーとして出産した笠置の苦境を吹き飛ばす曲を考えた」という――。

※本稿は、輪島裕介『昭和ブギウギ 笠置シヅ子と服部良一のリズム音曲』(NHK出版新書)の一部を再編集したものです。

映画『銀座カンカン娘』(1949)の笠置シヅ子/左
映画『銀座カンカン娘』(1949)の笠置シヅ子/左(写真=新東宝/PD-Japan-film/Wikimedia Commons

戦後の焼け跡と強く結びついた笠置シヅ子の記憶

笠置シヅ子の記憶は、「戦後」と抜き難く結びついている。

1985(昭和60)年に彼女が死去したときの新聞記事の見出しは「焼け跡に明るいリズム」「暗い世相吹き飛ばす」(朝日新聞4月1日)、「戦後世相へリズムのパンチ」(読売新聞同日)、「焼け跡にブギウギ」(毎日新聞同日)というもので、朝日と読売では、「ブギの女王」という形容が、彼女の名前の上に冠されている。

しかし、笠置と作曲家・服部良一のコンビは、音楽的には日米開戦直前、「ラッパと娘」が生まれた時点でひとつの頂点を極めている(少なくとも私はそう考えている)。そして、戦前の「スウィング」と戦後の「ブギウギ」は音楽的には明らかに連続しており、大きな断絶はない。「ブギウギ」のリズムも、後述するように服部は戦中にすでに試みていた。

とはいえ、「スウィングの女王」と「ブギの女王」の意味合いは同じではない。戦前に笠置を支持したのは、東京を中心とする大都市部の中間層以上、とりわけ映画やレコードを通じてアメリカの大衆文化に精通していた層に限られていたと考えられるのに対し、戦後では彼女の人気は地理的にも階層的にもきわめて幅広くなっている。

この2回連続記事では「東京ブギウギ」に至る過程と、笠置シヅ子の代名詞としての「ブギウギ」が演じられ受け容れられ、さらには時代全体の象徴のようにも使われていく文脈の変化と拡大に注目する。

戦前の「スウィングの女王」が戦後は「ブギの女王」に

敗戦後、笠置シヅ子と服部良一のコンビは、東京では日本劇場と有楽座を中心とする東宝系の劇場を活躍の場とする。笠置が東宝系劇場に出演する経緯や契約関係は不明だが、吉本エイスケと恋愛関係になった戦争末期以降、吉本興業系の舞台にしばしば出演していることが布石となっているかもしれない。

東宝舞踊団(TDA)による日劇での戦後初公演となる『ハイライト』(11月22日から)は、「笠置シズ子の凱歌であった」と翌月の『東宝』で評されている。「ハイライト」に特別出演した「灰田勝彦と笠置シズ子」を表題とする三ページの長い評論で、筆者の榎下金吾は映画宣伝に関わっていた人物のようだが残された文章は多くない。それまでの笠置のキャリア全体を見渡した彼の評言は、ずばりと核心をついているように思える。

あらゆる観客が、好むと好まざるとに関わらず、彼女のダイナミックな「二人で歩けば」に圧倒されたであろう。彼女は正に水に帰った魚であった。過去数年は、陸に上った河童を続けていた観があった。これは得意の「私のトランペット」〔※筆者注「ラッパと娘」の誤りかもしれない〕などのスイングジャズが封じられていたと言う意味ばかりでは無い。他の軽音楽歌手と同じく「笠置シズ子と其の楽団」を組織して歌っていたことは、私は彼女の為に決して取らなかった。笠置シズ子は、レヴュウの中にあってこそ、其の真価を発揮する歌手なのである。コーラスを配し、踊り子の群と共に踊り、豪華な衣装と背景に彩られ、良き演出者に指導されて、始めて其の良さが百パーセント生かされるのである。