「内定をいただけたところなんです」
「多井先生、これはつまらないものですが……」
そう言って菓子折りを渡してくる。
「息子は大学に入ってから、ずっと昼夜逆転の生活を続けてまいりまして、私も心配をしておりましたのですが、4年生になってようやく心を入れ替えて就職活動を始めてくれ、それで先日、なんとか内定をいただけたところなんです」
緑川君のお母さんは、これまでの緑川君の様子を長々と説明し始めた。その途中ではたと気づいた。そういえば、緑川君には前回の試験でF(不可)をつけていた。
「多井先生にはたいへんよくしていただいていると息子からもつねづね聞いておりまして、感謝しているところでございます。ところで前回の試験で、先生からFをいただきまして、情けないことですが、息子の卒業のための単位がもう少しのところで足りなくなっており……」
やっぱりそう来たか。
「お母さま、立ち話もなんですから、研究室にお入りください」
そう言って研究室に通した私は、緑川君の答案用紙を探し出し、お母さんに見せながら、どこがどう間違っていてF(不可)をつけたのかを、できる限り丁寧に説明した。
「よくわかりました。ただ、息子の人生がかかっているのです。先生からの2単位をいただければなんとかなるのです。どうにかならないでしょうか?」
土下座せんばかりの勢いで頼み込む母親
土下座せんばかりの勢いのお母さんを見ていると、親心がわかって心苦しくもあったが、それでもダメなものはダメ。無い袖は振れない。
「誠に申し訳ありませんが、そうおっしゃられても、私にはどうにもできません。こちらも受け取れませんから、どうぞお引き取りください」
30分も押し問答をしたあげく、持ってきた菓子折りを持ったまま緑川君のお母さんは帰っていった。何度もこちらを振り返って頭を下げるその姿を見送ったあと、研究室の椅子に腰かけると、ドッと疲れが出た。子どもの将来を思う気持ちはよくわかる。ただ、ここは中学校でも高校でもない。大学なのだ。子どもの努力不足を親がどうにかしようとするとは……。
その2週間後、教授会が開催され、卒業判定が行なわれた。心を鬼にして断ったものの緑川君とお母さんの顔が思い出され、「息子の人生がかかっている」という言葉が頭をよぎった。卒業できない4年生のリストが配布された。リストには氏名とともに取得単位数や必修科目の履修状況が記載されている。
「原案のリストでご異議はないでしょうか?」
学部長が出席教員に聞き、教員全員が黙ってうなずく。卒業判定といっても、儀式のようなものだ。私はリストの緑川君の名前の欄を見た。彼の取得単位数は、卒業要件まであと6単位足りていなかった。私の科目の2単位を足したところでどうにもならなかったのだ。