もっとも、警察は自警団を高く評価し、それを活用しようとしていたため、裁判では被告人のほとんどが無罪あるいは執行猶予になった。このように、日本の自警団の成立には、震災によるパニックという自然発生的な要素が影響したものの、それ以前に全国各地で進められていた自衛組織づくりという国の政策が大きな役割を演じた。この点が、英米の自警団の成立過程と異なるところだ。

震災時に一部の自警団に見られた逸脱について、警察は統制が弱かったために生じたと考えた。そのため、自警団に対する監督が強化され、自警団は警察の下部組織としての性格を強めていった。1940年には、全国的に町内会の整備が図られ、町内会も市町村行政の下部機構と化した。こうして、一般大衆は権力構造の末端に編成され、市民の警察化が戦時体制の深化とともに完成していく。しかしそれも、敗戦後、GHQ(連合軍総司令部)によって否定されることになる。

このように、かつて日本では、自警団系ボランティアの暴走があった。もっとも、その程度がより著しいのは、国家としては後発のアメリカだ。

処罰が徐々にエスカレート

そもそも、自警団員(vigilante)という単語は、寝ずの番(vigil)、用心深い(vigilant)、警戒(vigilance)と同じ語源のラテン語から派生した語だ。したがって、自警団員による活動は非合法的・超法規的であるとか、自警団員による活動に処罰が含まれると考える必然性はない。しかし実際には、自警団の歴史は手に負えない運動の事例に満ちている。

特に、刑事司法制度の整備が辺境で遅れた18~19世紀には、法を擁護するため法を犯すことは必要だとして、超法規的な活動が自警の主流になった。実業家、知的職業人、富裕農場経営者から選ばれたリーダーの下、自警団は、疎外された人々によって開拓地が乗っ取られることを恐れて、馬どろぼう、強盗、偽金造り、放火魔、殺人者、奴隷、土地略奪者などと戦った。

自警団による処罰についても、当初は、むち打ちと追放が一般的だったが、やがて絞首刑が通例になっていった。そのため、リンチの意味も、1850年代に、むち打ちから殺害へと変わった。1767年から1910年の間に、700人以上が自警団によって処刑されたという。

20世紀になると、カトリック教徒、ユダヤ人、黒人、急進論者、あるいは労働運動のリーダーを標的とする自警団が勢力を伸ばした。さらに、1960年代になると、「ブラック・パンサー」と名乗る黒人の武装自警団が注目されるなど、自警団の数も急増した。