1713年に出版されて以降、300年以上も読み継がれている健康書の古典『養生訓』。著者の貝原益軒は83歳まで生きた。これは人生50年と言われた江戸時代で75歳と長寿だった徳川家康をしのぐ長さ。『病気にならない体をつくる 超訳 養生訓』の編訳を務めた内科医の奥田昌子さんが、益軒が実践した現代にも通じる「豊かな人生の送り方」を紹介する――。

※本稿は、貝原益軒、奥田昌子編訳『病気にならない体をつくる 超訳 養生訓』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の一部を再編集したものです。

貝原益軒の肖像画〈藤浪剛一編『医家先哲肖像集』刀江書院〉(写真=国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons)
貝原益軒の肖像画〈藤浪剛一編『医家先哲肖像集』刀江書院〉(写真=国立国会図書館デジタルコレクション/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

『養生訓』は日本人のための健康書

養生訓ようじょうくん』は、江戸時代前期から中期に差しかかる1713(正徳3)年に出版されて以来、日本で最も広く、最も長く読み継がれてきた健康書の古典である。著者の貝原益軒かいばらえきけんは医師であり、現在の薬学にあたる本草学をはじめ多くの分野に通じた大学者であるが、『養生訓』に小難しさはない。

バランスよく食べ、腹八分目にとどめ、体を動かし、過不足なく眠り、楽しみを見つけ、心穏やかに健康で過ごすことの大切さと、そのための方法が説得力を持って書かれている。いわば健康になるためのノウハウ書である。

〔精選版〕日本国語大辞典』(小学館)は、養生を「生命を養うこと。健康を維持し、その増進に努めること」と定義している。養生の概念ならびにその方法は、8~9世紀に中国大陸から伝わり、長らく一部の知識階級のためのものだった。鴨長明かものちょうめいが1212年に執筆した『方丈記』には、「つねに歩き、つねに働くは、養性なるべし。なんぞ、いたづらに休み居らん」(よく歩き、よく働くことは養生に役立つ。なぜ、休むなどという無益なことをするのか)という記載がある。「養生」よりも「健康」という言葉が多用されるようになるのは、明治政府が西洋医学を重視する政策を取って以降のことである。

『養生訓』は出版されるやたちまち評判になり、幕末にあたる1864年までの約150年間に12回も重版された。その理由として考えられることは四つある。

一つめは食と健康への関心が高まっていたことである。益軒が生きた元禄時代は産業が発展し、文化が成熟した。豊かになった町人の間で演芸、読書、書画、園芸などの娯楽が広がり、衣食住にこだわる余裕も生まれた。益軒の没後まもなく8代将軍の座についた徳川吉宗が庶民の教育に力を入れたことで、平易な解説書や教訓書の需要が高まったことも追い風となった。

二つめは情報革命の波に乗ったことだ。印刷技術の向上によって、都市部の人々は書物や版画を手軽に入手できるようになっていた。

三つめは平易な言葉で書かれていたことである。日本で最初の医学書とされる平安時代の『医心方いしんぽう』も、鎌倉時代に栄西禅師が著した『喫茶養生記きっさようじょうき』も、教養ある上流階級を対象に漢文で書かれていた。これに対して『養生訓』は漢字仮名交じりの日本語を用いていたため、あらゆる階層の老若男女が読むことができた。

そして四つめに、外国の借りものではない、日本人のための養生書だったことを挙げたい。『養生訓』以前の医学書、健康書は大部分が中国大陸の書籍の内容をまとめたものだった。益軒は大陸の文献を広く研究しながらも、日本の歴史や文学、文化に造詣が深かった。『養生訓』には儒学や仏教、武士道の考え方、そして自らが生涯を通じて追求し、実践してきた養生体験と、そこから得られた教訓が豊富に盛り込まれている。日本人が取り入れやすい内容だったことから、当時の出版社が、

「本書を読めば著者のように元気で長生きできる」という大判の広告を出したようだ。後述のように、益軒は心身ともに健康で83歳まで生きた。