『養生訓』に流れる養生哲学

明治時代以降も『養生訓』は解説書を含めて繰り返し出版され、例えば1982年発行の講談社学術文庫『養生訓』(貝原益軒著、伊藤友信訳)は、2022年までの40年間に65回増刷されるロングセラーになっている。

その一方、現代では『養生訓』に対する批判もある。西洋医学が主流になる前に盛んだった中国大陸の伝統的な医学薬学が基礎になっているため、非科学的な記述が多く、時代遅れで役に立たないというのである。

けれども、これは表面的な見方である。『養生訓』は実用的な作りになってはいるが、『養生訓』の『養生訓』たる所以は、健康になり、健康でいるための心がまえを強調していることだ。健康に対する考え方、心の持ち方に関する助言は、時がたっても色褪せることはない。

また、益軒は医薬の専門知識を有しながらも、同時に儒学者であった。冒頭で、「健康こそ人生最高の幸福である」と述べ、「幸福になるために人はどう生きるべきか」を解き明かしていく。体と心の両面から全人的な健康を目指す『養生訓』の思想は養生哲学と呼ぶべきものであり、これこそが『養生訓』の肝である。

よりよい養生を模索し続けた、益軒の生涯

では、益軒はその生涯を通じて、どのように思想を深め、どのような境地に達したのであろうか。

貝原益軒は1630(寛永7)年、福岡藩に仕える父の5男として生まれた。三代将軍徳川家光の治世である。「益軒」は晩年に用いた号で、本名は篤信という。

母と6歳で、継母とも13歳で死別し、また幼い頃から父の仕事の都合で転居を重ねた経験は、益軒に生と死、人と社会について考えさせただろう。父は薬の調合に通じており、益軒も早くから医薬に触れていたようである。

19歳で福岡藩に仕えたものの、どんな事情からか藩主の勘気に触れて2年で辞めさせられてしまった。自分が正しいと信じることは、誰に何と言われてもやり通す性格があだになったという説もある。

ここから35歳で藩の実務に復帰するまでの歳月が、人生の転機となる。長崎で医学を修め、父のとりなしで藩医として福岡藩に再度取り立てられると、約10年にわたり藩費で京都に派遣され、儒学を学ぶ機会を得た。当時の著名な儒学者をはじめ、各分野の学者、医師らと交流して得た知識と経験は益軒の学問上の素地となった。初期には陽明学の書籍をよく読んでいたが、京都で朱子学に転じたとされる。

朱子学とは、簡単にいうと、宇宙の運動から社会、人の体や精神まで、あらゆる事柄は共通の法則に従っているという思想である。すべてのものに法則があるはずだという思考は、客観的に確かめられた知識こそが本当の知であるとする合理的な考え方に行き着く。これは、学者に欠かせない科学的な態度を育むことになっただろう。例えば益軒は児童教育に関する著作『和俗童子訓わぞくどうじくん』で、それまで「いろは」の順で学んでいた仮名を、「あいうえお」順で教えるべきだと提唱している。これも科学的合理性を示すものといえる。

益軒は幼い頃に体が弱く、周囲から「賢い子だが長生きしないだろう」と言われていたらしい。勤勉な益軒は書物や医師、周囲の闘病経験者らから養生の方法を熱心に学び、自らの体調で効果のほどを確かめながら、よりよい養生術を模索した。

福岡藩では藩主や藩士に儒学を講義し、藩主直々の命を受けて重要な記録をまとめるなど重用され、多忙な日々を送っている。その傍ら、没するまでの約50年間に医学、薬学、農学、歴史、地理、教育学、法律、算術、天文学など広範な分野で、一説には98部、247巻とされる膨大な著作を残した。このことから、後年来日したドイツ人医師で博物学者のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、益軒をギリシャの哲学者アリストテレスになぞらえている。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの肖像画(写真=Edoardo Chiossone/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの肖像画(写真=Edoardo Chiossone/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons