養生の道がもたらす豊かな人生

益軒は当時の文化の中心地にたびたび滞在し、学識と思索を深めた。藩命によるものだけで京都へ24回、江戸へ12回、長崎へ5回赴き、勉学目的以外にも江戸や京都に再三にわたり足を伸ばしている。39歳のときに当時17歳の女性と結婚して、晩年まで何度も仲良く旅行し、書画を楽しみ、穏やかな日々を過ごしたようだ。

益軒の人となりを表すエピソードとしてよく知られているのが、牡丹の花の逸話である。この逸話は、益軒が亡くなるのと入れ替わるように生まれた歌人で国学者の加藤景範かとうかげのりが著した『間思随筆かんしずいひつ』に収められている。後に修身の教科書に掲載され、2013年には当時の安倍晋三総理が施政方針演説で言及した。

益軒の自宅に牡丹園があり、その中に、益軒が特に開花を待ちわびている株があった。ようやく咲き始めた頃、下男らがふざけていて枝を折ってしまった。やがて益軒が外出から戻って牡丹園を散策し始めた。はらはらしながら見ていた下男らだったが、叱責しっせきされることはなかった。後に話を伝え聞いた人が益軒に、「さぞご不快だったでしょう」と聞いたところ、益軒は微笑んで、「花を育てるのは楽しむためだ。花のことで怒るのはおかしい」と答えたという。

養生訓』で益軒は、「人として生まれたからには良心に従って生き、幸福になり、長生きして、喜びと楽しみの多い一生を送りたい」と述べている。一例を挙げれば、食事をするときは誰のおかげかを考え、感謝の心を忘れず、農家の人の苦労に思いを馳せ、こんな自分でも食事ができていること、世の中には自分より困窮している人がいること、昔の人は十分に食べられなかったことを思い出せという。武士であり、すでに世に聞こえた大学者であった益軒の謙虚さと、すべての人に向ける優しい眼差しが印象的である。

思想面では、益軒は晩年になって朱子学に批判的な立場を取り、若い時期に親しんだ陽明学の中の知行合一ちこうごういつという概念を重んじるようになる。知行合一とは、煎じ詰めれば、「知っていても実行しなければ知っているとはいえない」という実践重視の考え方である。『養生訓』を出版した翌年の1714(正徳4)年、最晩年に刊行された『慎思録しんしろく』には、よく知られる一節、「学ぶだけで人の道を知らなければ学んだとはいえない。人の道を知っていても、実践しなければ知っているとはいえない」がある。

死去する前年においても体力気力ともに充実し、自ら筆を執って『養生訓』8巻を書き上げた益軒は、83歳で見事に天寿をまっとうした。その姿は、生涯をかけて追求した養生の道が正しかったことを雄弁に物語っている。

現代にこそ読みたい『養生訓』

『養生訓』は我々に何を教えてくれるであろうか。益軒の時代には、食べる目的がそれまでの「生きること」から「楽しむこと」に変化し、栄養不足ではなく栄養過多を原因とする病気に注目が集まっていた。飽食の時代といわれて久しく、生活習慣病やメタボリック症候群が蔓延する現代と重なる。初版から300年を超えたこんにちでも、当時の食材や献立、調理法、摂取法のほとんどが馴染み深いものであるため、実用書として大いに参考になる。

また、誰もがストレスに喘ぐ現代人からみると江戸の暮らしにはのんびりしたイメージがあるが、礼節と忠孝に縛られた社会の中で、人付き合いには細やかな配慮が求められていた。『養生訓』は「心の養生」としてストレス管理の大切さを強調し、その軽減法を具体的に教えてくれている。

貝原益軒、奥田昌子編訳『病気にならない体をつくる 超訳 養生訓』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)
貝原益軒、奥田昌子編訳『病気にならない体をつくる 超訳 養生訓』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)

そして益軒の養生哲学は現代の健康思想を先取りするものであった。世界保健機関(WHO)は、1946年にWHO憲章で健康をこう定義している。「肉体的、精神的及び社会的に完全に良好な状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない」。はっきりした病気がなければよいわけではなく、ただ長生きすればよいわけでもない。生活の質の向上や健康寿命の延伸に象徴される、質の高さを伴う健康こそが重要ということだ。『養生訓』は健康書があふれる現代にこそ手に取りたい、本物の健康書だといえる。

『養生訓』は健康ノウハウ書であるとともに、益軒が生涯の集大成として書き上げた養生哲学書である。超訳にあたっては、読者がどちらの読み方もできるよう配慮した。できれば異なる視点から二度、三度と読んで、益軒の深く温かい助言に耳を傾けていただきたい。

【関連記事】
【第1回】「これをやると必ず命を縮める」300年のロングセラー古典が断言する「それでもやってしまう」本当の理由
なぜハダカデバネズミは老化せず、突然死ぬのか…生命科学者が発見した「死の直前まで元気バリバリ」への条件
長生きしたいなら食事、運動よりずっと重要…ステージ4の盲腸がんから劇的寛解を果たした女性が実践したこと
「70歳以上は酒もたばこも自由でいい」人生の最後に後悔する高齢者と"幸齢者"になる人の決定的違い
「脳トレはほぼ無意味だった」認知症になっても進行がゆっくりな人が毎日していたこと