皇居西側には広大な空閑地が広がっている
いま皇居の新宮殿や宮内庁があるのは、大御所やお世継ぎが住んだ「西の丸」である。江戸城本丸御殿や西の丸御殿は頻繁に焼失し、幕末には西の丸の仮御殿に将軍や和宮、篤姫などが住んでいた。
東京遷都後、明治天皇が引き継いだが、火事で焼けたので明治宮殿が建設された。公的な場と御所も兼ねていたが、空襲で焼失した。
天皇ご一家のお住まいである現御所や昭和天皇の吹上御所があったのは西の丸の西、半蔵門側の吹上御苑である。江戸時代後半には庭園で、防火のための緩衝地帯になっていた。戦前はゴルフ場に使われていたが、戦後は昭和天皇の意向で武蔵野の昔に返ったような広大な空閑地になっている。
本丸、二の丸、三の丸の跡は、東御苑と呼ばれているが、天守台があるのと、香淳皇后のために建設された桃華楽堂、雅楽などを演奏する楽部、文献調査や陵墓の管理に当たる書陵部の施設、皇室のお宝を展示する三の丸尚蔵館、皇宮警察などがあるのみだ。
皇室が「徳川将軍の継承者」に見えてはいけない
現状の皇居とその関連施設をそのままに天守閣を再建しようというのが、菅前首相の提案の趣旨のようだが、やめたほうがいい。
そもそも、君主の公式の宮殿とお住まいが軍事的な要塞のなかの奥深くにあるのは、世界でも類例がない。故高松宮は、低い塀にだけ囲まれた京都御所にいた時の姿こそ、皇室のあるべき姿という考えだった。
「皇族というのは国民に護ってもらっているんだから、過剰な警備なんかいらない。堀をめぐらして城壁を構えて、大々的に警護しなければならないような皇室なら、何百年も前に滅んでいるよ」(『文藝春秋』平成十年八月号)
それでも、戦前の明治宮殿は、住まいと諸行事が行われる公式スペースが一体化していた。しかし、いまは天皇ご一家は吹上御苑におられ、新型コロナ禍の時期にはほとんど外出されることすらなかった。
そこへ天守閣など再建すれば、ますます、皇室の伝統から離れて徳川将軍の継承者のようになってしまう。しかも、展望台として最上階に観光客を上げたら皇居が丸見えで、徳川が皇室を見下ろすことになる。