幕府は天守閣の効用をわかっていなかった
保科正之は金蔵を空にするほどバラマキを行い、江戸の町並みを立派にした。市民の幸福を優先する「民生重視」の方針は立派そうだが、実はそうでもない。天下泰平が確立したこの時期、保科正之のような城下町バラマキ型の大名は多かった。ところが、農民の犠牲の下で、城下の武士や町民など将軍や殿様に近いところにいる人だけが潤う、不均衡な優遇だった。
また、三代将軍家光の時代までに、税収の伸びに結びつかないバラマキで蓄えておいた資金を使い果たし、以降、幕府や大名の財政は窮乏し、軍備や前向きの経済開発ができなくなった。さらに、実用的な意味はなくても、権威を象徴し、将軍や江戸の町のカリスマ性を向上させる天守閣の効用を理解していなかった。
結局、天守閣は再建されることはなく、将軍のカリスマ性を失わせる原因となった。高知、松山、丸亀、宇和島、和歌山、小田原など江戸時代に天守閣を再建したところも多いが、それがバカだったと思う市民はほとんどいないだろう。
京都では光格天皇の希望で、火事で焼けた京都御所を再建することになった。中世の影響が強かった焼失前の建物ではなく、時代考証をして平安時代に近づけたため、朝廷のカリスマ性はぐっと上がった(現存のものは嘉永年間の火事で焼失したのち、安政年間に焼失前にならい再建)。パリの凱旋門だって、実用性は何もないが、費用をかけただけの価値はある。
大都会の中に埋もれている江戸城
大名の屋敷は、江戸城の城内や近所にあったが、明暦の大火のあと、御三家や加賀藩などは外堀の外に移された。現在の防衛省が尾張、赤坂御所が紀伊、後楽園が水戸、東京大学本郷キャンパスが加賀の藩邸跡で、それぞれ人口数千人規模だった。
残念ながら、皇居周辺(江戸城趾)は、有効活用されているとはいいがたい。江戸時代、皇居外苑には譜代大名の屋敷が並んでいた。しかし明治維新後は、二重橋の前あたりは、閲兵式などが行える広い広場として砂利が敷き詰められ、その外側には、松などがまばらに植えられている緑の広場となり、和田倉門に近いあたりは噴水公園がある程度で、極端に低い利用状況だ。