選挙の時に公明党の存在感が増す理由

政界への進出も、戸田氏が旗振り役となり創価学会の内部組織が差配していたのを、池田氏が1961年に公明政治連盟と改組し、1964年に公明党として分離した。

信者数は公明党の得票数や創価学会の行事参加者などから数百万人とみられる。日本人の数パーセントだが、選挙になると公明党の比例票が12パーセント程度となるのは、学会員の投票率が高いのが主因だ。

戸田氏は諸葛孔明に心酔しており、池田氏も影響を受け、参謀的センスはそのあたりからも磨かれた。世間からは池田氏は強引な人だと見られがちだが、謝罪するときは潔く、損切りも大胆だし、不祥事を起こした幹部や議員は早めに処分した。一方、組織の方向転換が必要な時には一般会員の意見をよく聞き、無理をしないで時間をかけて行った。

池田氏を悩ませた2つの問題

池田氏を悩ませたのは、日蓮正宗(日蓮宗の一派)との関係だ。創価学会は日蓮正宗の信徒団体として出発し、信徒の9割以上が学会員になった。大石寺に正本堂を建立したときは、寄付の98%が学会員だった(1965年に募金活動し1972年完成)。

大石寺正本堂。1972年に建設され、1998年に取り壊さた
大石寺正本堂。1972年に建設され、1998年に取り壊さた(写真=Tetralemma/PD-user/Wikimedia Commons

しかし、創価学会が意見を言っても、宗門の僧侶たちは創価学会を下部組織として扱って耳を貸さない。とくに、国立戒壇設置にこだわり、創価学会はこの頃に完成した大石寺正本堂で十分だとした。

あるいは、池田氏がベートーベンの第九交響曲を称揚するのを宗門は非難したが、世界宗教への道を歩もうとすれば他文化や他宗教との融和は不可欠だった。結局、1991年に宗門が創価学会を破門し、その後、宗門によって正本堂も取り壊された。この経緯でも池田氏はかなり妥協し、無理をしなかった。

もう一つ、池田氏を苦しめたのが1969年の言論出版妨害事件だ。衆院選直前に発売予告された政治評論家・藤原弘達の著書『創価学会を斬る』は、「宗教は大衆を麻痺させる阿片的機能を果たした」「創価学会は狂信者の群れ」と批判し、とくに婦人部の女性たちを侮辱する内容だった。

そこで、創価学会と公明党は出版時期の中止・変更や、表現を穏健に書き直すことを求めたが、田中角栄氏による仲介を公明党幹部が働きかけたことが大問題となり、共産党も加勢して創価学会・公明党は窮地に立った。