2000年初頭、リコール隠しやダイムラーとの提携問題で一度は地に落ちた三菱ブランド。しかし、金融危機が業界を直撃した後、長年の希望を背負った電気自動車がにわかに世界へと走り出した。

40年にわたる、三菱・電気自動車開発の歴史

40年にわたる、三菱・電気自動車開発の歴史

その後しばらくして、相川は開発中だった軽自動車「i(アイ)」を目にしてピンときたという。アイは普通の乗用車とは反対に、後部座席の後ろにエンジンを積むリアエンジン車だった。

「エンジンをモーターに替えても車体前部の衝突安全設計を変える必要がない。床下はほとんど平らだから、そこに大型のバッテリーパックをぶら下げることもできる。EVができるじゃないか」

アイも、ダイムラーから開発中止を言い渡されたモデルだったが、ダイムラーから出向してきた役員の一人が「何もかも奪うのはよくない」と継続を認め、たまたま生き延びていたのだった。

「アイがなければ、自力でEVを開発することはなかったかもしれない」(相川)

相川は05年5月に開かれた技術説明会で「EVを市販する」と明言。その「爆弾発言」は翌日の新聞の一面を大きく飾った。会長の西岡喬からは「そんな大事なことなら社長が発表するべきだ」とお灸を据えられたが、EV量産化計画は「見切り発車」でも前に進み始めた。

電気自動車はバッテリー開発については困難を極めるが、構造自体は複雑ではない。が、いざ試作に取り組んでみると、甘くなかった。協力者が見つからないのである。部品の多くは、エンジン車とまるで異なる。既存のサプライヤーとは違う、発電、変電など電気の専門メーカーに協力を仰がなければならない。

多くの企業から「EVはどうせ台数が出ないから」と尻込みされた。交渉以前に「お宅の会社は大丈夫か」という態度をあからさまに見せる企業まであった。

無理もなかった。当時、トヨタやホンダなどが記録ずくめの高収益をあげていたのに対し、三菱自動車は過去最悪の赤字という悲惨な経営状況である。

「そこを何とか……と社長と一緒に必死に頭を下げてお願いしました」(相川)

エンジン車とはまったく違う、EV部品の助っ人たち

エンジン車とはまったく違う、EV部品の助っ人たち

そのうち、 強力な助っ人が何社か現れた。その1社が、発電用システムの開発などで知られる老舗企業の明電舎である。東京電力が91年に独自につくったEV試作車「IZA」、スズキのハイブリッド軽自動車「ツイン」など、EVの共同開発の経験もあった。

モーターとパワーコントロールユニットという中核部品について、当初は3社で競争試作を行ったが、要求性能を満たすことができたのは明電舎だけだった。

「ウチにとってもいい経験になりました」と、明電舎コンポーネント事業部EV事業開発部長の若林茂隆は言う。

「設計段階で問題があればリコールものですから、とくに注意しなければいけない。モノができあがったらその次には『コスト半分』という言葉が出てくる。高品質、低価格なEVをつくって普及させるためには、そういうニーズにしっかり応えていかなければならないでしょう」

性能のカギを握るリチウムイオン電池の開発では、97年から3年間共同研究を行った日本電池とユアサコーポレーションの合併企業、ジーエス・ユアサコーポレーションが名乗りを上げた。

「最初はゴルフ場の電動カートと似たようなものだと考えていたが、アイ・ミーブに試乗したら、加速もよく何と素晴らしい車だろうと感動した。ぜひこの車の電池をつくりたいと思った」と、同社の依田誠社長は明かす。もっとも三菱向けに建設した専用工場は、ラインを増設しても年間生産量が6000台程度。

「急な拡大は想定外だったが、目下、新工場の用地を探しているところです」と経営戦略統括部長の中満和弘は語る。
(文中敬称略)

※すべて雑誌掲載当時

(田辺慎司、芳地博之(水島、松山)、小林禎弘(京都)=撮影)