なぜ「世界の七割シェア」から半死状態に陥ったか

順番に見ていこう。

1986年9月に日本政府と米国は「日米半導体協定」を締結した。半導体に関する日米貿易摩擦解決をめざす条約レベルの約束で、第一次日米半導体協定(1986年~1991年)と第二次日米半導体協定(1991年~1996年)によってわが国の半導体開発の劣化が決定的となった。ブッシュ・シニア政権からビル・クリントン政権の時代である。

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写真=iStock.com/lucky-photographer
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1981年に世界市場の七割ものシェアを誇っていた日本の半導体は半死状態に陥った。1970年代後半から日本の半導体の対米輸出が増加し、米国内に反日感情が醸成され、米産業界と議会には「日本脅威論」が強まって、全米に日本への嫉妬と反感と嫌悪が混ざり合った感情が広がった。

それ以前、世界ランキングの1位はTI(テキサス・インスツルメンツ)、2位がモトローラ、3位はフェアチャイルドといずれも米国企業だった。当時、筆者は貿易会社を経営していたので、米国へ輸出していた品目は弱電部品や電気雑貨が主だった。したがってTI、モトローラ、フェアチャイルドなどはおおきな存在だった。

この時期に日本が襲われたもう1つの要素は過度な円高である。

トップ10に日本企業が7社入っていた

貿易業者、総合商社、輸出メーカーなどにとっては「想定外」の方向から経済上の交易条件が変わった。この通貨戦争も米国が巧妙に狡猾に仕掛けた。日本の雑貨、高級衣料、電化製品、電機部品など国内で製造してもコストが合わなくなり、機械ごと台湾、香港、フィリピンなどへ移した。筆者の取引先の多くは機械を海外へ移転するか、廃業した。政治家と官僚たちの無能!

1985年のプラザ合意に前後して、半導体不況で米国メーカーの業績が悪化し、多くが半導体事業から撤退した。米国半導体工業会が日本に言いがかりをつけた。米国半導体工業会(SIA)は1977年設立の業界団体、本部がシリコンバレーではなく、ワシントンDCにある。つまり政治ロビィイングの圧力団体の1つである。

このロビィスト団体が「日本の半導体メーカーが不当に半導体を廉価販売している」とダンピング違反をUSTR(米国通商代表部)に提訴した。

この時期(1986年)の半導体の売上ランキングでは世界1位がNEC、2位が日立製作所、3位が東芝、4位にかろうじて米国モトローラ、5位がTI、6位がフィリップス、そして日本勢に戻って7位が富士通、8位がパナソニック(松下電器産業)、9位が三菱電機で、米国のインテルは10位だったのである。