義母との関係は難しい。漫画家・文筆家のヤマザキマリさんの母親は、夫と離婚した後も義母・ハルさんとの同居を続け、最期まで看取ったという。ヤマザキさんは「世間体や常識の向こう側に行かなければ出会うことのない、かけがえのない人もいるのだということを知った」と振り返る――。

※本稿は、ヤマザキマリ『扉の向う側』(マガジンハウス)の一部を再編集したものです。

音楽という職業を持ったシングルマザーの母

1970年代半ば、母がヴィオラ奏者として所属していた札幌交響楽団は、海外や国内、そして本拠地である北海道内でも精力的に演奏活動を行っていた。大きなホールがない場所であっても学校の体育館や屋外でコンサートを開くというその勢いは、クラシック音楽の生演奏などとは無縁の地域における、文化の開拓事業と捉えてもおかしくなかった。

そして、そのような演奏旅行の回数が増えていけばいくほど私と妹の留守番の頻度も増した。高度経済成長が衰えつつあったあの頃、家庭を持ちながらも就労する女性が珍しくない時代へと差し掛かってはいたが、母の場合は音楽という特殊な職業を持ったシングルマザーであり、しかも既に離婚していた夫の母親との同居が、当時我々が暮らしていた団地の界隈で異質さを際立たせていた。

ヴィオラ
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別れた夫の母親は、母の強い味方だった

演奏家という職業の選択と、東京から北海道への移住を決めた母の意思を理解してくれた最初の伴侶は一緒になって間もなく他界してしまい、その後再婚した男性も海外住まいで結局その結婚生活も長続きはしなかった。型やぶりな生き方に対する周囲の好奇な干渉を気に留めるでもなく、世間体の縛りなど全く意識に無いような母の前向きな天真爛漫さは、かつての育ちの良さの顕れだったとも言えるが、時には頼る人のいない心細さに落ち込むこともあったはずだ。

私たち姉妹が夜にふたりだけで銭湯や買い物へ行く姿を目撃した団地の住民から「誘拐されてもいいんですか!」などと強く怒られたこともあったらしい。そんな時、別れた夫の母親であるハルさんは、母の強い味方についてくれる人だった。母が夫と別れても義母との暮らしを望んだのは、ひとりの女性として、そしてひとりの人間として、ハルさんを心底から敬っていたからだろう。