「リョウコさん、ありがとう」「こちらこそ」
それから半年ほど経った頃、夏休みの最中にハルさんから一枚の葉書が届いた。母はその葉書を読むなり、血相を変えたように私たち娘ふたりを自分の車に乗せて、岩見沢という街の小さなアパートに間借りしているハルさんを迎えに行くと言い出した。ハルさんから送られてきた葉書には短い近況が記され「また皆さんと一緒に暮らしたい」という一言が添えられていた。漢字が少なく歪んだ筆跡が子供心にも切なかったが、母にしてみれば気丈にひとりで人生を突き進んできたハルさんの弱音に、居ても立ってもいられなくなったのだろう。
ハルさんは癌を患ってその翌年に亡くなるが、それまでは再び私たちと一緒に団地で暮らし続けた。ハルさんの最期を看取ったのも母だった。病院に入院していたハルさんは、私たちの顔を見ても誰なのか判別できない状態だったが、母のことだけは認識していたようで、「リョウコさん、ありがとう」とかすかな声で伝えていた。母はそれに対し「こちらこそ」と、ハルさんの節くれだった皺だらけの手を握った。
今でも、真っ青な空が視界の果てまで広がる夏の北海道の道を、岩見沢に向けてハンドルを握る母の目線の先に、どこまで行っても追いつけない逃げ水が浮かんでいた光景を鮮明に覚えている。世間体や常識の向こう側に行かなければ出会うことのない、かけがえのない人もいるのだということを、私はあの時知ったように思う。