1998年、西武ライオンズの監督だった東尾修さんは、横浜高校(当時)の松坂大輔投手の獲得を目指していた。「横浜(現DeNA)ベイスターズしか行かない」と公言していた松坂さんをどのように説得したのか。東尾さんの著書『負ける力』(インターナショナル新書)から一部を紹介しよう――。
唯一無二だった松坂大輔
松坂が横浜高校で甲子園に出場した際には、堤さんからフロント、スカウト、首脳陣に「よく見ておけ」というオーナー命令が下された。そんな指示は後にも先にも、大輔一人だったと記憶している。
堤さんはとにかく負けず嫌いなので、ある時はフロントを通じて、ある時は直接電話で指示が飛んできた。誰を使え、誰を二軍に落とせ、といった類のものだ。ただ、その通りにできない時は、できない理由を説明すればわかってもらえたし、誰とは言わないが、試合中に「あいつを代えろ」とベンチに電話して采配にまで口を挟むタイプのオーナーではなかった。
ある時も「大成を二軍に落とせ」と言ってきたが、フロントの人と一緒に落とせない理由を説明したところ、翌日にはすっかり忘れて観戦に熱中していたそうだ。「監督」と一口に言っても、与えられる権限はチームや人によって違ってくる。チームによっては社長や役員のような立場にもなりうるし、部長・主任クラスの権限しか与えられないということもあるだろう。
また、原辰徳の辞任により、現役続行を希望していた高橋由伸が巨人の監督になったことがあったが、辰徳のような人事権は与えられてはいなかったという。由伸に辰徳のような振る舞いができたかどうかは別にして、彼にできることはかなり限られていたのではないかと思う。