さみしすぎると冷静にものごとを考えられなくなる
さみしさを埋めるために、過食、お酒、薬物、ギャンブル、ゲーム、買い物、セックスなどに依存してしまうこともあります。
わたしたちの脳には報酬系という回路があり、苦労をいとわず様々なことを頑張れるのは、快楽という報酬を脳が欲しがるためであると考えられています。この快楽を受け取っているときには、様々なストレスから一時的に解放されたような感覚になります。
当然、さみしさもこのときには消え去ります。けれどもそれは一時的なもので、その快楽が減衰してくれば、またさみしさも戻ってきてしまいます。ドーパミンによる快楽でさみしさが一時的に消えるということを覚えてしまうと、なかなか抑制は利かなくなってくるでしょう。同じことを繰り返していくうちに、気づけば依存的になっているということも考えられます。
ドーパミンによる快楽そのものが悪いわけではありません。さみし過ぎると冷静にものごとを考えられなくなるというのは、体のどこかに激痛を感じているときと似ていて、心が痛い状態、といえるかもしれません。
逃れるか、向き合うかで人生の結末は大きく変わる
その痛みを一時的に忘れるために、快楽を利用することを覚えてしまうと、それが常態化してしまい、本来はさみしさそのものを受け止めて処理することができたはずなのに、その心の靭性(しなやかさ)を手離すことにつながってしまうのです。
さみしさは、誰にでもある感情です。同時に、これは苦しいものだから、誰もがそのさみしさを忘れたいという気持ちを持っています。
けれどもそれを一時的に忘れようとして、目先の快楽に溺れる生活を選ぶのか、さみしさと向き合って、それさえも人生の豊かさの一側面であると考え自身の糧としていくのか、最初はほんの少しの違いなのですが、長い年月を経るあいだには大きな格差となって表れていきます。