※本稿は、中野信子『人は、なぜさみしさに苦しむのか?』(アスコム)の一部を再編集したものです。
人は「さみしさ」から逃れられない
なぜ、人はさみしくなってしまうのでしょうか。
今や携帯電話やSNSで、いとも簡単に他人とつながることができる便利な世のなかに暮らしているにもかかわらず、なぜ、わたしたちはときに強いさみしさを感じ、気分が深く落ち込んでしまうのでしょうか。
「今日1日、誰とも会話をしていなくて孤独感を覚える」という人もいるでしょう。大切な人を失ったことで、何年ものあいだ喪失感から抜け出せないという人もいるでしょう。
仲のいい家族と暮らしていても、心を許せる大勢の友だちと過ごしていても、さみしさを感じることはあるはずです。事業で大成功し、巨額の富を築いて華やかな交友関係を楽しんでいるような、誰もが羨む著名人でさえ、ふとさみしさを感じることはあります。
多かれ少なかれ、すべての人の人生の、どんな瞬間にも、さみしさは心のなかのどこかに潜んでいるものなのです。わたしたちにとって、そんなありふれた感情であるにもかかわらず、なぜさみしいという感情は、こうも不快で、こうもやっかいなものなのでしょうか。
他人と共有するのが難しく、コントロールできない感情
まず、さみしさは他人と共有することが難しい感情であることが挙げられます。
例えば、いきなり不意打ちで誰かに殴られたら、痛いと感じて、「怒り」や「恐怖」といった感情が生じると思います。自分が殴られていなくても、殴られた人にそのときの状況を聞けば、殴られた人がどのくらいの痛みを感じ、どれほど腹が立ち恐怖を感じたのか、ある程度は想像することもできます。
しかし、さみしいという感情は、感じ方の個人差が非常に大きいため、どんなときにどのように感じるのか、他の人に説明することが難しい。他人が想像することも、とても難しい感情なのです。
さみしい人というと、ついひとりでいる人を想像しがちですが、「ひとり=さみしい」とは限りません。ひとりや孤独は状態を指す言葉であり、一方のさみしいは主観的な感情だからです。
数時間ひとりになることを想像しただけで、とても悲しい気持ちになってしまう人もいれば、数日間、あるいはもっと長い時間をひとりで過ごしてもまるでさみしさを感じない人もいます。むしろ、「ひとりでいると他人に気を遣わずに済むから楽」「ひとりの時間のほうが好き」という人もいるでしょう。