免疫低下で「空気を吸っているだけでも発熱する」

1クール済んだら、少し休養期間を取ってまた次の抗がん剤治療をするが、山本さんは後半に差し掛かると、骨髄の回復が遅れて免疫低下状態が続き、1週遅らせることもあったという。

「抜け毛もありましたが、これは予想していたことなので大丈夫でしたが、そんなことよりもこの気持ちの悪さ、つらさが1年続くのは無理だ。どうにかして家に帰りたいと考えたのです」

母親や看護師、周囲の人に「1年はどれくらいなの」と真剣に聞いていたほどだという。

常に吐き気、口内炎、舌のしびれや味覚障害などの神経障害症状がある中で、多くの種類の薬を飲まなければならなかった。水を飲むだけで吐いてしまうのに薬を何個も飲まなければならない。吐き戻してしまうとまた飲み直しで免除されることはなかった。新しい薬を準備しないといけない看護師の中には、ため息やあきれ顔で見つめる人もいて、それを見るのもまた辛かったという。

体調が良いときは、病院内にある院内学級高等部で学習する。悪いときは、テキストも携帯電話の画面も見られなくなるので、有効な学習はなかなかできない。教員がベッドサイドへ来て授業をしてくれ、通っていた塾のテキストなどを用いて勉強する時間を作ってくれた。学校に通っているときほど勉強時間はとれず、以前はできていた問題も、あやふやになって、できなくなっていたので焦る気持ちもあった。

高校に行くのを楽しみに辛い抗がん剤治療を乗り切ったが…

「AYA世代のがんは、希少がんが多く、特に私のがんは、本来は骨や筋肉に発生するがんなので、臓器に発生していたため、非常に稀でした。調べても検索に引っかかってこないのです。同室の先輩患者から、抗がん剤治療の症状やどう乗り切るのか対処法を聞き、辛さをひたすら耐えるしかなかった。とくに最初の半年は辛かった」

学校の制服
写真=iStock.com/miya227
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不安はどんどん押し寄せてきたが、ポジティブシンキングをすることにした。1年後にはあの制服を着て高校にいる自分を思い、将来的には看護師になりたいと決めた。入院生活で看護師さんのありがたみが分かって、「ああなりたい」と願った。ときどき高校に進んだ友人がお見舞いに来てくれた。高校での楽しい生活を包み隠さず話してくれたので、この1年を越えれば自分も楽しい生活が待っているように思えた。

受験のため、あと2クールの治療を残し、途中で退院をした。

病院から「前例が少ないので、最後まで治療するのが良いか断言することはできないけれど、どうしたい?」と問われ、「2年浪人は避けたい」と思い、すべてのスケジュールを終えずに退院した。山本さんはどうしても翌年の入試を受けたかった。