「先生と呼ばないで」も強制力を生んでしまう

このモヤモヤした感じが引っかかっていた時に、とある哲学者のエッセイを読んで納得しました。三木那由他さんの『言葉の展望台』(講談社)に所収の「そういうわけなので、呼ばなくて構いません」という作品です。

三木さんは大学の先生ですが、「先生」という敬称で呼ばれることに抵抗を感じていることが綴られます。そして、「『先生』と呼ばないようにしてください」と言いたいものの、それをうまく伝える方法がわからないことで、いろいろと思索を巡らせます。

このエッセイでは、言語行為という観点から言葉のあり方を考えていき、そのプロセスが書かれていくのですが、やがてこのように述べられます。

私から学生に「『先生』呼びはやめてください」と言うとき、私はこれよりも大きな強制力をこの学生に及ぼしているように思える。私は、自分がそう言いさえすれば相手が基本的に断れないということを自覚している。そして、おそらくはその力を発揮しようとしている。これは依頼とは別の行為だ。

著者が学生との間の「不均衡な権力関係」を解消しようとしながら、むしろ新たな強制力を発揮しているのではないか? と自問する過程はいろいろなことを教えてくれます。

上下関係にこだわらずフラットにしたいとしても、それを上からの力で推し進めれば、結局はもとの上下関係をさらに強化するのではないでしょうか。本当に自由な空気であれば、呼称詞は問題にならないと思うのです。

ストレスの度合いを表すメーター
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大切なのは相手を尊ぶ風土

呼称の問題も含めて、本当に「風通しのよい組織」にしたいのであれば、経営層や管理職が余計なことをしないのが一番だと思います。

とある大企業で社長に就任した人が「もっとオープンにしよう」と言い出しました。何をするのかと思ったら、「社長室のドアは開けておく」という物理的なオープンをおこなったのです。

しかし、社長が関わることはそうそうオープンにできることばかりではありません。やがてドアを閉めることも増えたのですが、そうなれば「今日は何か聞かれたくないことがあるな」とみんな思いますし、根拠の無い噂も増えます。

そもそも、経営者の仕事は会社を正しい方向へ導くことなのですから、ドアの開け閉めなどは本質的な話ではありません。

また、「みんなが発言できるように」とミーティングを増やして、かつ必要もないのにコメントを強いるような人もいますが、メンバーの心理的な負担が増すだけです。結局は、いわゆるマイクロマネジメントになるのです。

ちなみに、micromanagementという英語をネットで調べれば、困った上司のやり方がたくさん出てきます。

「権限を委譲しない」はもちろんのこと、「常にハッスルを要求する」や「過剰にコミュニケーションする」、さらには「メールにやたらとccを入れる」といった特徴も出てきます。「風通しをよくしよう」として陥りがちな罠は洋の東西を問わないようです。