尾崎豊は1983年12月、18歳でデビューし、「10代の教祖」「反逆のカリスマ」などと形容される伝説のロックシンガーになった。彼を見出した音楽プロデューサー、稲垣博司さんの著書『1990年のCBS・ソニー』(MdN新書)より、伝説の始まりとなったデビューライブの様子を紹介する――。
音楽祭で手を空中に持つ幸せな歓声の群衆
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偉大なミュージシャンは27歳で死ぬ

1983年12月1日、アルバム「十七歳の地図」、シングル「15の夜」でデビューしたのが、この世を去って30年をすぎた今でも若者に熱く支持されている尾崎豊でした。

彼が亡くなった時に2歳だった一人息子の尾崎裕哉が、父親の年齢を超えて何年も経つのですから、感慨深いものがあります。

死亡した当時、尾崎は26歳。あまりにも早すぎる、突然の死でした。欧米には、「27クラブ(The 27 Club)」なる27歳で死亡したミュージシャン、アーティスト、俳優の一覧があります。この名称が広く知られるようになったのは、1994年にニルヴァーナのカート・コバーンが死んだ後からだとも言われています。

ローリング・ストーンズのリーダーだったブライアン・ジョーンズを筆頭に、伝説のギタリスト、ジミ・ヘンドリックスや、ブルーズの女王、ジャニス・ジョプリン、ドアーズのジム・モリスン、そしてカート・コバーンなど、27歳で亡くなったミュージシャンがあまりにも多いことから、いつしかそう呼ばれるようになったようです。

なまりのない標準語で歌えるシンガー

「ロックスターは27歳で死ぬ」という、まことしやかに囁かれる法則からすれば、尾崎は一つ下の年齢になりますが、もともと日本では「享年」という場合、数え年で表すのが習わしのため、ある種の因果のようなものを感じなくもありません。

尾崎も、松田聖子と同じくソニーが主催するオーディション出身のアーティストです。彼について、まず好感を抱いたのは、なまりのない標準語で歌っていることでした。それまで、ニューミュージックのシンガーというのは(このころの社内での尾崎の扱いは、まだロックシンガーではありませんでした)、地方出身者が多く、どこかなまりがありました。その点、尾崎は東京の出身で、渋谷にある青山学院高等部に通っていたこともあり、「きれいな標準語を話す若者だな」というのが、私の第一印象でした。

声質や楽曲の良し悪しはもちろんですが、私は、いわゆる“スター”を作るにあたり、この標準語が、重要なファクターだと考えていました。尾崎に懸けてみようと思った理由の一つに、そのきれいな発音と、言葉づかいがあったのです。