両国の回向院で熊による芸の興行が行われていた
一番古い記事は、以下のものだ。
両国回向院の地内にて興行をして居る熊の芸づくしは中々よく仕込んであると子供たちの評判でありましたが、先月三十日にこの熊が小家を出て近所の子供を相手にいたして狂ッて居たるを浅草馬道の寺島俊造という人、通りかかって大きに驚き、風呂しき包みを投出して子供を抱いて、ようやく熊を小家の中へ追いこんだゆえ、人に怪我もなく、すぐさま芸を始め出したと、この小家に居る新吉より申して来ました(「読売新聞」明治8年7月3日)
両国の回向院で熊による芸の興行が行われていたが、この熊が小屋を抜け出し、近所の子供に襲い掛かったが、浅草馬道の寺島俊造という人が通りかかり、持っていた風呂敷包みを投げ出して子供を抱き、熊を小屋の中に追い込んだ。誰にも怪我はなかったという。
東京のど真ん中で熊の興行とは、なんとものどかな時代である。
熊を飼い慣らし、芸を仕込む旅芸人がいた
かつて、熊を飼い慣らし、芸を仕込む旅芸人がいたらしい。その存在は江戸時代からよく知られていたようだ。
天保年鑑に出版された『北越雪譜』(鈴木牧之編選)に、白熊を見世物にする香具師の話が記載されている。
また、次の記事は明治初期の東京での挿話である。
北海道紋別の井坂仙吉という者は、北海道の中にては名の聞えたる相撲の関取なるが、一昨年来、大熊三十疋を飼ひ馴らし、丹念に相撲を取る事を教へしに、巧みにその技を習ひ覚へ、今は本場の角力の如く東西に分れて勝負を争ふ、中にも此内の老熊二頭は行司を勤め、勝ちたる方へ口にくわえし扇子を振向くる様は実に見物なれば、来春早々、仙吉が数頭の熊を引連れて出京なし、両国回向院境内にて熊の大角力を興行すると云ふ(「読売新聞」明治16年11月21日)
北海道紋別の井坂仙吉は名前の通った相撲の関取だが、大熊30匹を飼い慣らし、相撲を取ることを教えた。本当の大相撲のように東西に分かれて、年老いた熊は行司役を務め、勝った方に扇子を振り向ける様は実に見事。来春には両国の回向院で熊の大相撲を興行すると言う。