20年野球一筋→投資運用会社への転身はなぜできたのか

ポイントは、以前から野球だけでなく学業も並行して頑張り続けたことだ。

その布石は桐光学園高校時代にすでに打たれていた。大学進学を念頭に勉強を怠らなかった東條さんは高校3年間の成績はオール5。スポーツ推薦ではなく学校推薦により早大入りを果たす。

この野球と勉強の両立という実績がのちの人生にも影響を与える。社会人の全国大会である都市対抗に6回出場し、主将として実力者ぞろいの名門チームをまとめたものの、自分はプロのレベルにないことを自覚して6年で現役を引退。いったん社業に就いて東京駅での改札業務などを担当した。

JRの駅と東條さん
撮影=清水岳志

「業務をしながら、ずっと考えていました。自分のセカンドキャリアはどうしたらいいだろうか、と。このままJRという巨大な組織に残れば安定した生活は保障されるかもしれない。でも、自分の人生、やりたいことは何か……」

そうやって自分を見つめ、スタート地点に立ち帰った結果、意外な人生を選択する。その最終的な判断はJRでの社会人野球時代、ある人物との“アカデミック”な出会いが大きかった。

JRに入って4年目のことだ。野球部の外部コーチになっていた元ボストン・レッドソックスのルイス・アリシアコーチから指導を受け、社会人野球でベストナインになるなど選手として飛躍できた。

「コーチの質が大事」ということはアメリカキャンプで通訳兼世話人だったリチャード・脊古さんに諭された。

「日本の野球界は現役を引退したら段階式にコーチになれることが多いけれど、アメリカはしっかり勉強してからコーチになる。選手の経験がなくても認められればコーチになれる。この流れはいずれ、日本にも来る」

君も学びなさい、と強く勧められたという。東條はここで深掘りすることを決めた。「コーチングを極めて後進を育てよう」。

その頃、日本で最新のコーチングを学べるのは筑波大だった。早稲田のスポーツ科学部にはコーチングの名がつく学科はなく、母校を離れる決断をする。

大学生時代、早大野球部員の多くは所沢キャンパスのスポーツ科学部に在籍するが、東條さんは新宿区の戸山キャンパスの文化構想学部。野球部は男所帯だが、学部では女子学生も多くジェンダー関連のゼミに属した。あまり型にはまらない。そんな自身のスタイルが当時から備わっていた。

「(ゼミのテーマである)ジェンダーもつながってくるんですが、今はもう早稲田にこだわり、早稲田だけにいる時代じゃないなと。早稲田の血もあり、筑波の血もある。多所属、多様性の化学反応を自分の中で起こしてみたくなりました」

また、筑波を選んだのは同大野球部の選手の境遇が自分と似ていた点にシンパシーを感じたということもある。

彼らは運動能力だけでは大学に合格できない。また、身体能力も東京六大学リーグ、東都リーグと比べれば劣る。プロでやるというレベルにはないが、大学では野球を極めたい。そういう選手の集まりだ。

東條は筑波大野球部の川村卓監督が主催する大学院の野球コーチング論研究室に所属することに。この研究室には過去に、現千葉ロッテ監督の吉井理人、現DeNAコーチの仁志敏久も在籍したことがある。

川村監督のもとには、二刀流の大谷翔平(エンゼルス)を指導した岩手・花巻東高校の監督・佐々木洋さんや、佐々木朗希(千葉ロッテ)を育てた同じ岩手・元大船渡高校監督の国保陽平さんも頼っている。

コーチング
写真提供=東條航