なぜラパ・ヌイの人たちは消えたのか

大昔のラパ・ヌイには高度な文化があった。集団間で助け合い、集約農業をしていたし、社会はタテ割りで、人々は通勤していた。「この人たちは進歩している」というときに、私たちが思い浮かべる何もかもがそこにあった。

石像はポリネシア語でモアイと呼ばれ、ほかのポリネシア社会とも共通する最高峰の芸術形態だった。モアイはラパ・ヌイの社会で大事なもので、信仰と政治のどっちの理由もあった。

祖先の顔の肖像をつくって崇めると同時に、これを建てた人物がどんなに偉大であるかを思い知らせる役目もしていた。

そして、一つの謎が別の謎に移り変わる。どうやって石像がそこにやってきたのかではなく、どうして木が1本もなくなってしまったのか?

どんなふうにラパ・ヌイの人たちが石像を運んだとしても、そうするには太い丸太を大量に必要としたはずである。そして、石像をそこに建てたほどすごかった文明が、どうしてこんなに冴えない社会になり果てたのか?

ほそぼそとした畑仕事で食いつなぎ、持っているカヌーはみすぼらしい。そのうえ、最初にやってきたオランダの船乗りたちを出迎えたときは、簡単にやられてしまった。

イースター島
写真=iStock.com/abriendomundo
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自然に木が生えない土地

その答えはというと、ラパ・ヌイの人たちはついていなかったし、しくじりもしたということだ。

ついていなかった。というのは、島の地理も経済も森林伐採の影響をまともに受けやすかったからだ。ジャレド・ダイアモンド(「農業は私たちの最大の過ち」という理論の提唱者)は、著書『文明崩壊──滅亡と存在の命運を分けるもの』(草思社)でラパ・ヌイ島の人たちをまともに取り上げて、こんなことを言っている。

たいていのポリネシアの島々と比べて、イースター島は乾いていて、土地が平らで、気候が寒い。しかも、ほかの島々から遠く離れた小さな孤島である。こうしたことから、切り倒した木々が自然に生え変わる見込みは少ない。