「使命」という言葉は少し怪しい

ジャーナリズムも同じです。絶対に正しいなんてことはないと思います。「なぜ、あなたはこれをやっているんですか?」「それを人に知らせる必要があるんですか?」とジャーナリストはみな自分に問い続けているわけです。

三十何年かインタビューをしてきて、人から話を聞くことに多少は慣れました。でも常に躊躇ちゅうちょがあるし、苦しみます。使命というのは言い訳で、やはり最後は自分自身、自分一人の問題になります。なぜ、お前はそれをしたいのかという自問です。

使命だと思い込み、悲惨な立場にある人々を取材し、自分のモヤモヤした気持ちをうまく追いやったとしても、自分自身があとで傷つくこともあります。使命というのはいい響きですが、少し怪しい言葉です。

混乱と考え過ぎの概念
写真=iStock.com/Mihaela Rosu
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差別を生む「種」はどこにあるのか

南アフリカに住んでいたころは、差別がなくなるといいなといつも思っていました。あらゆる差別がなくなってほしいと。当たり前ですが、自分がそういう目に遭ったら嫌ですよね。

ちょっと買い物に行こう、ワインでも買いたいなと歩いて5分ぐらいの店に行って帰ってくるだけなのに、「おい、お前、いつまでいるんだ、国に帰れよ」などと言われたくないですよね。「この国にいるな!」とかね。日々、「道の真ん中を歩くんじゃない」とか、「端っこを歩け、お前は二等市民なんだから」とか、そんなこと言われたくないですよ。そんな差別はあってほしくないと当然思っています、消えてほしいと。

「差別は良くないよ」と言い続け、消えればいいですけど、なかなか消えない。じゃあ、どうしたら少しずつでも改善されるのか。

例えばアフリカの子供の写真を見て、条件反射的に、短絡的にその意味を掴んでしまう。ひどいことだと背景も知らずに一般化する。それが偏見であり、その偏見が自分のふるまいに表れれば、差別行為となる。そんな差別を生む「種」、心の底にある何か、それがどこから来たものなのか、どんな意味があるのかを自分で捉えていくしかないと思います。

私の場合、何かを書くことで、少しでも状況が良くなればと思っていますが、どう書けば伝わるのか。ずっと探っているところです。