どうすれば差別はなくなるのか。ノンフィクション作家の藤原章生さんは「そもそも人間は差別をしてしまうものだ。それを踏まえた上で、一つひとつの差別について『これはおかしい』と突き詰めていくしかない。『差別はいけない』と諭すだけでは、差別は消えない」という――。

※本稿は、藤原章生『差別の教室』(集英社新書)第9章「感受性と属性と──学生の問いに答える」の一部を再編集したものです。

ブラック・ライブズ・マター運動
写真=iStock.com/Josie Desmarais
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人間は相手が誰であれ差別をしてしまうもの

「差別は消えないのでしょうか」という声をいただきましたが、それについて少し考えたいと思います。

差別がなくなってほしいと私は思っています。でも、差別を考えるとき、自分も差別をする人間だという自覚が必要だと思います。

「私は差別をしない、悪いのは差別をする人間だ」と言って、自分だけ聖職者みたいな態度の人がいますが、それはおかしい。人間は相手が人であれ動物であれ物であれ、分類してしまうものです。そして分類したものの優劣を決めてしまいがちです。

それを十分踏まえた上で、そこに差別が生じた場合、一つひとつ「これはおかしい」と突き詰めていくしかないんじゃないかと思います。理屈で「差別はいけない、はい終わり」という話ではないんです。

だから、それぞれの事例に当たって、そこから出た答えを積み重ね、差別をしない人間になるという理想に自分を追い込んでいく。意図的に追い込んでいくというより、直感的にそうなっていったほうがいいと思うんです。

絶対に正しいことはない

「差別をなくすことへの使命を感じますか」という問いがありました。どうでしょう。私にはそんな高邁こうまいな考えはありません。ただ、差別の話に耳が傾くのは確かです。でも、使命とは違いますね。もちろん、差別がなくなってほしいとは常々願ってはいます。

1986年製作のローランド・ジョフィ監督『ミッション』という映画があります。ロバート・デ・ニーロが主演の映画で南米が舞台です。カトリックのイエズス会の話です。宣教師たちが先住民の村に入って布教活動をするわけです。先に来た宣教師は殺されてしまうのですが、主人公たちはどんどん奥地へと入っていくわけです。彼らは現地人を見て、あの人たちに神のことを知らせ、目覚めさせなくちゃいけないと本気で思っています。途中で散々ひどい目に遭いながら、ミッション、使命だからと、密林を分け入っていく。最後は彼らもひどい末路を迎えるのですが、やっていることは正しい、神は見てくれていると思い込んでいる。

ちょっと泣けるような映画なんですけど、私は観たあと、こんな思いを抱きました。彼らのミッションは間違っていた。「上から目線」という言葉がありますが、上から目線って何も悪くないと思うんです、それ自体は。知識のない人たちに知識を教えるとか、そういうことは当然ですから。

だけど、「これは絶対なんだ、これは正しいんだ」という正義で人に何かを押しつけていく行為が「ミッション」に描かれていたと。

コロンブスが新大陸に到達してから500年あまり、「野蛮な人たち」を救い出して、自分たちと同じように一神教を信じさせなくてはいけないというミッションが各地で為されてきました。でも、それが正しかったのか。80年代のこの映画はそう問いかけていると思いました。