ツブしがきかないブン屋、でも出会いをチャンスに

「ブン屋(新聞記者)」はツブシがきかない……などと揶揄されることがある。

ビジネスの実務経験があるわけではないので、同じ記者職は別として一般企業への転職は難しいからだ。しかも50代半ばではさらにハードルが高くなる。実際、同じようにリストラされた同世代の社員のその後の人生はパッとしないもののように思われた。

しかし、髙橋さんはそうではなかった。

「若い頃から取材先の会社の相談に乗っていましたし、多くの記者とは違って、記者の傍らで営業的な仕事、例えば部数の拡張や広告取りにも積極的にたずさわってきました。自分では商売ができる確信があったし、もっと多く稼ぐ自信があったのです」

「新聞社は、いろんな業界の人と知り合うチャンスがあるので、本来ならば世渡りに有利なはずなのです」と語る髙橋さんが出会ったのが、健水の元社長だ。

「取材が縁で知り合った元社長とはウマが合い、以前から会社の相談を受けていました。例えば、従業員のトラブルや、商品の売れ行きがはかばかしくないなど、何かあれば話を聞いていたので、健水のことをよく知っていました。元社長は高齢で、会社の後継者がいないことが心配だったようです。私が早期退職するかもしれないと話したところ『記者を辞めるのならうちの会社を経営してみないか。今よりも給料が悪くなることはないと思う』と誘われました。決算書も毎期見てきたので健全な経営状態だとわかっていたし、事業承継をするのもいいかもしれないと思いました」

大阪都心部での福祉事業は勝機がある!

髙橋さんにとっては“渡りに船”。独立を決めるまで時間はかからなかった。退職の意思を告げた時、毎日の幹部の反応は「え、もう決めたの?」「本当に辞めるの?」といったものだったそうだ。

とにもかくにも四半世紀以上にも及んだ記者生活に別れを告げ、オーナー社長になった。

事業承継にあたって、元社長の個人会社だった健水を株式会社に組織変更。新規事業の立ち上げ、従業員の福利厚生の見直し、弁護士や行政書士などの士業を顧問にするなど組織改革に着手した。記者時代から懇意にしていた弁護士などの士業を顧問に迎えたのは、新規事業を実装するスピードを上げるためだったそう。

また、大阪東部にあった本社を大阪市のど真ん中、中央区難波二丁目に新設した。なぜ、大阪難波駅から徒歩1分という好立地に移ることができたのか。

この場所は、「ホテルアートイン難波」(以下、アートイン)の1フロアだ。

2人とも幹部の外国人社員
写真=本人提供
2人とも幹部の外国人社員

実は髙橋さんはやはり記者時代にこのホテルオーナーと知り合いだったことで破格の家賃で物件を借りることができたわけだ。

しかも、コロナ禍で空室が目立つ状態に困ったオーナーからホテルの運営を任せられ、アートインを含むホテルの運営会社「株式会社あるふぁ」の代表取締役にも就任した。宿泊料金がリーズナブルであるため、コロナ禍が収束し、インバウンド客が戻った今では稼働率もアップしている。

それだけではない。

ホテルのフロアを利用して、福祉型の宿泊施設として併用することを考えた。障害者福祉施設は、郊外にあることが多いが、それではアクセスが悪くて不便。一方、大阪の中心地・難波というロケーションなら利便性が高く利用者が増えると踏んだ。弁護士や会計士にも相談したところ、「大阪の都心部での福祉事業はきっといける!」と背中を押された。

「設立の許可が下りたので、健水やあるふぁの事業の一つとして福祉事業を始めたのです。アートインの1フロアを福祉施設にし、お年寄りや軽度の精神障害の方を受け入れることにしました。それ以外にも周辺にコロナ禍で家賃が安くなっていた2つのビルのフロアを借りており、中等以上の精神障害の利用者を受け入れています」