享年も死因もはっきりさせないといけないのか

著名人が死ぬと新聞の死亡欄にはかならず年齢と死因が公表されます。ふつうの人でも死んだとわかればまず確かめたくなるのが年齢(享年)と死因でしょう。

「いくつだったのかな?」「何の病気だったのかな」と気にします。

エッセイストの下重暁子さんが自分より年下の知人の訃報に接して、その死因に老衰とあったときに「なんと面倒なことよ」と嘆いていました。

自分より若くして亡くなった人が老衰だなんて、ある意味で驚きです。ほかに死因らしき病気も見つからなかったのだとしても、それなら自然死でも不明でもいいのに無理やり死因を特定し、老衰という残酷な言葉を当てはめるのは無意味なことではないかというようなことを述べていました。

この感覚もわかります。

死んだときの年齢も死因もはっきりさせないと気が済まないのが世の中です。

でも一人ひとりの生き方が違っているように、死に方も違っています。大事なのはどう生きたかということで、何歳で死んだか、死因は何かというのはどうでもいいような気がします。寿命だった、それだけでいいのではと思います。

「70歳だから…」という区分は意味がない

生きているときの年齢も同じで、70歳だから食生活を変えろとか、75歳過ぎたから後期高齢者だ、80歳ならそろそろ認知症が出てくるといった年齢当てはめの区分は意味がありません。要はその人が毎日どう生きているか、どんな暮らしを楽しんでいるかが大事なのであって、体力の衰えや体調の不安があったら自分なりに工夫してできることをやり続けるしかないはずです。

それでもある年齢になれば、老いに気づかされるときが来ます。

それが何歳のときに起こるのかというのも人によってさまざまになります。

元気なうちは齢なんか忘れてやりたいことをやっていいし、老いを自覚したらそのときに「そういう齢なんだな」と認める。いよいよのときが来たら「寿命じゃしょうがない」と年齢を受け入れる。それが何歳であっても人それぞれの寿命だと思うしかありません。年齢なんか後からついてくるものではないでしょうか。

少なくとも、「もう何歳だから」と自分を拘束する必要はありません。

あくまで自分あっての年齢でしかないのです。