資源と地球の有限性に注目した「成長の限界」
1972年に「成長の限界」という報告書が発表された。スイスのヴィンタートゥールに本部を置く民間のシンクタンク「ローマクラブ」が第1回の報告書としてまとめ、世界的に注目を集めた。
それによれば、資源と地球の有限性に着目し、人口増加や環境汚染などの世界の傾向が、もしこのまま続くとするならば、100年以内に人口爆発を引き起こし、資源も枯渇。地球上のさまざまな成長は、限界に達するだろうと警鐘を鳴らしており、世界に危機感が広がった。しかし、世界はその後どうか。まだ100年はたっていないが、なんとか均衡を保ち限界には至っていない。
「成長の限界」は日本でも大ブームとなり、当時、さまざまな検証と問題提起が行われた。賛否両論あったが、私は地球の有限性については、指摘の通りだと考える。しかし、まだ地球を食いつぶすという危機的状況ではないことも正しい。
欧州や米国は、この「成長の限界」の提言をベースとして、その後、「地球限界論」は、広く環境問題の主柱となっていった。1997年には、京都で気候変動枠組条約・第三回締約国会議(COP3)が開催され、皆さんの記憶に残る京都議定書が決まった。
先進国の原理であり、発展途上国は置き去り
しかし、「成長の限界」に指摘された、資源の有限性が成長を制約するという考察は、結局のところ、まだそうなっていない。
省エネのエンジンや自動車の開発、新型の火力発電所、化石燃料の消費の少ない工場など新しいテクノロジーが開発され、この数年間、世界の原油消費量そのものの消費は下がった。また、原油や化石燃料が枯渇するだろうといわれたのに、シェールガスが開発され、地球全体の化石燃料の総量は増えるという皮肉な結果となっている。
そのうち、「成長の限界」の指摘した状況は訪れるとは思うが、それはまだ遠い未来。また、先進国の論理である「成長の限界」論から言えば、発展途上国の進化や成長は、置き去りとなっている。まったくもって発展途上国に失礼な話だ。
この事例がそのまま、脱炭素の構図だと短絡的に断言する気はないが、欧州のものの考え方のベースを感じる。