ステージ4のガンを抱える会社員が絶対に仕事を辞めない理由

辛い結婚生活の報いは地獄の始まりだった

ニコラス・ケイイチさん(会社員)

最初にガンが見つかったのは49歳のときです。子供のころから足の甲にシコリがあり、特に気にするわけでもなく放置していました。離婚を機に心機一転、「ついでにとっておくか」という軽い気持ちで病院へ向かったのです。担当した医師いわく、子供のころから今まで悪影響を及ぼしていない腫瘍であれば悪性のはずがないとの判断で、先に切除してしまい、念のため切除後に腫瘍を病理検査するという流れでした。

ニコラス・ケイイチ氏
ニコラス・ケイイチ氏(藤中一平=撮影)

3日ほど入院し腫瘍の切除手術を済ませ、1カ月ほどたったある日。病院から電話がかかってきました。病理検査結果は悪性。目の前が真っ暗になり、私にとっては地獄と思える日々が始まりました。

診断結果は「軟部肉腫」でした。希少ガンのひとつであり、医学会では5年後の生存率は50%ほどとされています。化学療法や放射線治療は効果が期待できず、周りの正常な部分も含め腫瘍を取り除く「広範切除」というのが唯一の治療法でした。

20年余りの結婚生活は幸せとは程遠く、とても苦しいものでした。会話はほぼなく家庭内別居状態でした。夫婦の営みも子供を授かるためにしただけです。私が自由に使えるお金は月の小遣いの3万円のみ。年収は1000万円ほどありましたが、実質は36万円です。元妻の機嫌が悪いときはその小遣いさえももらえず、年収がゼロのときもありました。近くに住んでいた姉にお金を借りて凌いでいたくらいです。

こんなに苦しい結婚生活を耐えられたのは生まれてきた子供のためです。そして辛いときもありましたが、それなりにいいお金を稼げる仕事だけは楽しく、生き甲斐だったのです。やっとの思いで離婚調停に入り、離婚を成立させ、お金も時間も自分のためだけに使える。そんな自由を得た直後のガンの発覚でした。経済的DVに耐え続け、苦しんだ結婚生活の報いがこれなのかと、どん底に落とされました。

切断すれば、一旦ガンから解放される

担当医師と治療方針を決める面談では、「義足が着けやすいようにどの部分から脚を切断するか」が主な内容となり、根治の可能性がある切断が前提でした。「切断すれば、一旦ガンから解放される」とも言われたのです。医師としては患者が治療後も長生きする可能性が少しでも高い方法を提案するのは当然であるとわかってはいました。しかし、同時に切断後の生活の質(QOL)とのバランスも患者にとってはとても大切なことです。面談を繰り返す日々は、残された自分の人生にとって何がもっともQOLを高めてくれるのかを考える時間になっていきました。

真っ先に浮かんだことは旅行です。学生時代に欧州をバックパックで巡った体験が忘れられず、離婚後は行ける限り国内外へ旅行しようと決めていたのです。気のおけない仲間との旅行を想像したときに、義足で歩いている自分の姿は想像できませんでした。私にとっては自分の脚で仲間と旅行することが一番大事だったのです。

客観的に見ると「命より旅行が大事なんて」と思うかもしれません。しかし、49歳で独り身、仕事も充実して収入も安定し、時間もある。脚を切断しないことで残りの人生が短くなるリスクを抱えたとしても、自分自身のことだけを考えて生きればいい状況は、今までの人生において初めてのことだったのです。

脚を切断しても、ガンが他の部位に転移して再発する可能性はゼロではありません。もし切断してしまってから再発しようものなら、悔やんでも悔やみきれないとも思いました。私が脚を切断しない意志を伝えると、担当医師も受け入れてくれました。残りの人生のQOLを高めることと、根治の可能性に懸けて脚を切断し少しでも長く生きること、私にとって究極の選択です。その2つを天秤にかけさせられ、結果的にQOLを高めるほうへ全振りしたのです。

思い返すと、脚を「切断する、しない」という決断に悩んでいるときがもっとも苦しく、私にとって地獄と思える辛い時期でした。切断しない決断をした後は、効果はあまり期待できないけれども何もしないよりはいいとのことで、患部への放射線治療を1カ月半行いました。放射線治療が2週間を過ぎたあたりから、自分の脚から死臭が漂い、黒くただれはじめ、とうとう分厚い足の裏の皮がズルッとすべて剥けてしまいました。一晩中「痛い」と叫び続け、寝つけぬまま、次の日の午前中には放射線治療のために再び通院し、午後は痛みに耐えながらなんとか会社に出社するという日々でした。