そもそも窓口負担は本当に必要なのか?

政府はこれまでも、個人に自己負担を課すことで国民の受療行動や医療費支出をコントロールしようとしてきた。かつてはゼロであった高齢者の窓口負担を徴収することにしたし、大病院にかかる場合に紹介状がないと自己負担額を上乗せするという施策も行った。さらに最近ではマイナ保険証を使わない者へのペナルティー加算もあり、すべてこれに当たる。

そもそもコロナに限らず、医療機関における窓口負担は当然のものなのだろうか。3割負担の人の場合、窓口で支払わない7割部分についても、すでに保険料や税金で納めているのであって、医療にかかる多くの費用は自分の財布から出ているカネだ。なぜこの上、窓口でさらに支払わなければならないのか。

医療機関の窓口で実費を支払うとなった場合に、もし手元に余裕がなかったら受診を躊躇せざるを得ない場合もあるのではないか。病気やケガという“危機的事態”に、財布の中身と相談せねばならない現状は、アタリマエのこととして受け入れねばならないことなのだろうか。

あまりにも制度として定着しすぎているがゆえに、知っている人のほうが今は少ないかもしれないが、国民皆保険制度が達成された1961年当時は、被用者本人の自己負担は0割であった。その後、行政改革、構造改革という「改革」の美名の下に、そして社会保障費の増加を口実として、84年には1割、97年に2割、03年から3割と段階的に増やされてきたのだ。

病院の待合室
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公費負担では医療資源の使い方が歪んでしまうのか

また「日本では少ない自己負担額で良質な医療を、いつでも、どこででも受けられる」と聞かされつづけていると、この3割でも「少ない自己負担」と思ってしまう人もいるかもしれない。しかしヨーロッパなど世界に目を向ければ、英国やドイツなど窓口負担ゼロという国も、じつはまったく珍しくないのだ。

今回の5類への見直しにあたって千葉県の熊谷俊人知事は自らのnoteに、現行のコロナ治療にかかる公費負担について、一定期間は公費負担は必要かもしれないとしつつも、「全額公費負担によって医療資源の使い方がいびつになっている側面があるのは事実」と述べ、公費負担を外すことは「限られた医療資源を最大限に活かす」ことになるとの見解を示している。

熊谷知事の言う「医療資源の使い方が歪」というのが、コロナだけに全額公費負担している状況が歪んでいて、そもそもすべての医療は窓口自己負担が課されるべきでないとの意味であればまだ理解できるが、文脈からはそうは読み取れない。医療資源は有限なのだから、通常の医療と同様にコロナにも窓口自己負担を課して当然という意味であることは明らかだ。