塾通いも習い事も、結局は子供の意欲次第

結局、本人の意欲次第であり、かけた費用の多寡は本質的ではないということです。子どもは親の思ったとおりに育つものではありませんね。

一方、習い事は金銭をかけてでもやる価値があると個人的には思います。私は子どもの頃に「ピアノ・お習字・そろばん・スキー・水泳」と、多くの習い事をさせてもらっていました。

決して裕福な家庭とは言えない経済環境でしたが、「習い事は、亡くなった父さんが、国内外を旅して、外国語を1つ、楽器を1つ、スポーツを1つ得意にすれば、世界のどこに行ってもたのしくだれとでも友達になれる、と言っていたから」との母の判断でした。その判断は極めて有難いものであったと感じます。

ピアノを習っていたことで音楽に親しみ、留学・駐在時は中国語で流行歌を熱唱し、異国の仲間と盛り上がったものです。水泳は、駐在時に同じマンションに住む年配の男性たちと泳ぐきっかけとなり、ジャグジーでよく話し込みました。スキーは、インストラクターのアルバイトを通じて、修学旅行生と知り合う貴重な経験になりました。

「うちは金持ちだ」と子供が認識するのは良いことではない

ちなみに、子どもが「うちの家庭は裕福だ」と認識を持つのは、悪いことはあってもよいことはあまりないと思います。いろんな人を見てきてそう感じました。

家にお金があり余っていると、お金は空気のように「あって当たり前」です。すると、「あって当たり前」の空気を意識しないのと同様に、お金を意識する必要がなく、お金について考えなくなります。渇望という言葉がありますが、渇く(欠乏する)からこそ、大切に感じ、望むのです。

私が、中学生から資産形成に対して興味を持ち、探究できたのは、家にお金が多くないと感じたことが大きな要因の1つだと思います。もし裕福な家庭なら、お金に対して深く考えず、無頓着だったでしょう。

なにかが満ち足りていないことは、決して悪いこととはかぎらないのです。「足りないと感じる状況なら、なぜ足りなくて、どうやったら手に入れられるのかを深く考えられるチャンス」と思います。