預言者的な語りで学生を扇動

「人々は店や家に押し入り、持てるだけのものを持ち去り、立ちはだかる者を殺すだろう。社会の崩壊の終着点は、あらゆる都市で、あらゆる地域で、あらゆる通りで演じられる戦争である。これが君たちの世代に起こるであろうことである」――。ハラムがこうした預言者的な語りで引き出そうとしているのは、若者の理性や熟慮ではなく、気候変動への直観的な恐怖、怒り、「窮迫性」なのである。

ハラムはその後、実際に複数の大学で講演活動を行い、JSOに大学生を勧誘した。また2022年1月のグラスゴー大学での講演では、学生たちに対して、気候変動と戦う「革命家にならねばならない」と述べ、扇動したと言われる。

「法を超えた正義はある」という主張にどう反論するか

JSOやLGを批判するならば、「あなたたちのやっている行為は違法行為だ」という言葉では届かないだろう。というのも彼らは「違法行為上等、法を超えた正義はあるのだ」というスタンスだからである。

むしろこう言うべきである。「あなたたちの活動は市民的不服従の正当化の範囲と歴史を逸脱している、あなたたちの行動は市民的不服従を僭称する偽物だ」と。

このように批判しないと、私たちには、法に抗う余地がなくなる。歴史の各所で見られるように、法も時には暴走する。市民的不服従というカードをまるごと捨ててしまえば、私たちは「悪法もまた法なり」の言葉だけが支配する世界を生きなければならなくなる。

マハトマ・ガンディーは1930年に有名なデモ、「塩の行進」を行い、数万人の逮捕者を出したが、その際彼は伝統的な仕方で塩を作るパフォーマンスを行い、公然とイギリスの塩の専売に反逆してみせた。しかしこの行為も、当時の法律では「犯罪」だったわけである。

私たちが自分たちの世界に、きちんとした形で不正への抵抗の余地を残したいのであれば、市民的不服従の範囲を丁寧に定めつつ、それを確保していくことが必要である。そのためにはJSOやLGに漂う環境的黙示録などの危険な傾向や、市民的不服従の濫用などをきちんと指摘し、彼らの主張に軽々しく共感してみせることや、彼らの行動を擁護することを慎まなくてはならない。