矛を収めてかわいく振る舞うことで、壁が突破できる
ソクラテスの裁判には、陪審員が501人集まりました。そこで弁明の機会が与えられたソクラテスはまず自分の悪評の根源は何なのかを説明します。
普通の人なら家族を連れてきて、「私には大切な家族がいるんです。彼らを残して死ねません!」とか泣き落としするようなところです。ところがソクラテスは、大切なのはロジックやと、自分を告発した人たちの非を指摘するのです。かわいげがまったくない(笑)。
ぼくが会社員だった頃、同僚に面白い人がいました。ガンガン好き勝手なことを言うのですが、矛盾を指摘されると、突然ニッコリ笑って、「そこまで考えていませんでした。ごめんちゃい!」と言うのです。そしたらみんな、彼がとんでもないことを言っていたのも忘れて、こいつはええ奴や、となります。そんな例が、みなさんの周りにもないでしょうか。
ロジックで詰めても、だいたい勝ったと思うところで「飲みに行きましょうか。実はずっとあなたと飲みに行きたかったんです。誘うきっかけがなかったので、今になってしまいました」と言ってみると、相手も「そうか。お前、なかなかええ奴やな。じゃあ、お前の提案、通したろか」となるのは会社でもよくあるでしょう。あるところで矛を収めてかわいく振る舞うことで、壁が突破できるのです。
哲学者として、あえて態度を変えなかった
ところがソクラテスはそれをしません。以前から難儀なおっさんやと思われていましたから評決はどうなるかといえば……わかりますよね? ロジックは正しくても「ごめんちゃい」のひと言もなく傲然としていれば、誰も助けてやろうとは思わない。
やはり人間は論理的ではないんです。この本を読めば、それがよくわかります。今でも人間は変わっていません。
ソクラテスもそのことは十分、わかっていたと思いますが、ここで態度を変えては問題提起にならないし、自分が哲学者としてやってきたことを否定することになると考えたのではないでしょうか。「そんなことで判断していいのですか。あなた方の理性はどこにあるのですか」という問いかけを際立たせるために、こういう作戦をとったのだと思います。
もう70歳やし、やりたいことはやったし、こんなところでかわいくして生きながらえてもしょうがないという割り切りがあったのかもしれません。自分が70年かけてやってきたことを、「ごめんちゃい」のひと言で、帳消しにしてええのかと。