道場破りを続ける難儀なおじさん

ソクラテスがアテナイの人たちに問答をしかけていたのは、簡単に言えば、剣道の道場破りのようなものです。昔、剣の達人が道場に「たのもう」と入っていって勝負を挑み、勝ったら道場の看板を戦利品として持ち帰ることがありましたが、ソクラテスもそれと同じようなことをやっていた。

アテネ国立アカデミー前のギリシャの哲学者ソクラテス
写真=iStock.com/thegreekphotoholic
※写真はイメージです

みんな俗人ですから、今日は友だちの家へ遊びに行こうと思っているのに、ソクラテスが訪ねてきて、問答をふっかけられたらイヤでしょう。来られたほうは迷惑に違いないのですが、ソクラテスは、次から次へと道場破りを続けます。すごく難儀なおじさんなのです。

この頃、アテナイではお金をもらって弁論術などを教える「ソフィスト」と呼ばれる人たちがいました。それくらいアテナイでは議論が活発に行われていたということですが、ソフィストが教える弁論術は、劣った理論や間違った理論でも優れているように見せかける術で、「弱論を強弁する」と言われていました。

相手の辻褄の合わないところを論破する

詩人のアリストファネスの喜劇『雲』には、ソクラテスもそうしたソフィストとして描かれています。たしかにこの本でもソクラテスは、ソフィストと言われても仕方がないような詭弁的なテクニックを用いていることがわかります。

ただしソクラテスの場合は、相手の辻褄の合わないところを、ロジックをキチッと詰めて論破していますから、弱論を強弁していたわけではありませんし、自分はお金を受け取ったりはしていない、とも言っています。

だけどいきなりやってきたおじさんのロジックがあまりにも完璧で論破されてしまったら、人間やっぱりカチンと来ます。アテナイの人々から反感を買うのはわかりますよね。

閉塞感が哲学にパラダイムシフトを起こした

ソクラテスが哲学にパラダイムシフトを起こしたのは、ソクラテスの天賦の才能に加えて、当時のアテナイの閉塞感や市民が抱えていた問題意識も影響しています。

アテナイが順調に発展しているときは、何も心配しなくてよかったのです。高度成長期は、何かに疑問を差し挟むこともなく、働いていればそれで満足できます。ソクラテスが道場破りをしていたのはその時期です。

その後アテナイはスパルタと戦争を始めます。ペロポネソス戦争(BC431~BC404年)です。ずっとアテナイを率いてきた政治家のペリクレスが疫病で命を落とし、アテナイは次第に衰退へと向かいます。30年近く続いたペロポネソス戦争は、アテナイがスパルタに降伏して終結しました。

そうなると、市民の気持ちがすさんでいきます。「なんでこんなことになったんや」と犯人探しが始まるんです。日本でも関東大震災が起こったときに朝鮮の人々が虐殺されましたが、あのときもみんなで犯人探しをして、朝鮮の人が井戸に毒を入れたというあり得ないデマが広がってしまいました。